2013.01.26 更新
青山学院大学競技ダンス部 創部50周年記念誌
「競技ダンス部の飛躍を祈って」
青山学院大学 学長(当時) 伊藤 定良
青山学院大学競技ダンス部は1961年に「社交ダンス研究会」として発足し、文化団体連合会に加盟しました。その後「舞踏研究会」を名乗って現在の発展の基礎を築き、2005年に「競技ダンス部」と名称を変更し、今年で創部50周年を迎えることになります。
競技ダンスは今でこそスポーツとして認知され、広く一般国民の生涯スポーツとして大いに期待されておりますが、発足当初はダンスへの偏見もあって、競技ダンス部の歩みはけっして順調とは言えなかったようです。それにもかかわらず、ダンス部は皆さん方の努力によって素晴らしい先輩を送り出し、輝かしい成績を上げて、本年6月には東部日本学生競技ダンス連盟1部校昇格を果たしております。現在は現役部員40名ほどを擁しているそうですが、いっそうの発展を望みたいと思います。
私はダンスについてはフォークダンスしか経験したことがなく、競技ダンスと言われても最初はピンと来ませんでした。しかし、それが社交ダンスをスポーツ化し、その技術と芸術性を競うスポーツと聞かされ、そしてまた実際に創部50周年記念パーティーで現役の紅白戦やOBプロ競技選手のデモンストレーションを身近に見て、まさにこれはスポーツであることを実感しました。男女のコンビネーションによる豊かな身体表現のダイナミズムは、生涯スポーツにふさわしいものと言うことができます。競技ダンス部においては、実り豊かな学生生活のなかで、大学スポーツの手本となる姿勢を是非示していただきたいと思います。男性と女性の調和によって成り立つこのスポーツの特性は、これからの社会の姿を示しているのかもしれません。競技ダンス部での活動は、各人の将来の社会生活に掛け替えのない財産となることでしょう。
私は、創部50周年のこの機会に、競技ダンス部の伝統を担ってきたOBの皆さんや現役の学生諸君に対して心から敬意を表し、今後の飛躍を願ってやみません。
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「競技ダンス部創部50周年に寄せて」
青山学院大学競技ダンス部 顧問 河本 洋子(教育人間科学部 教授)
前顧問、相馬武美先生のご定年により、当時舞踏研究会と言っていた現競技ダンス部の顧問をお引き受けして、かれこれ20年余りになります。
昭和36年10月、社交ダンス研究会として発足して以来創部50周年を迎え、こうして関係者の皆様とお祝いができますことを共に喜ぶと同時に今日までお導きいただいた関係者の方々、関わって下さったOG・OBの方々に深く感謝申し上げます。
部活動に必要な書類に顧問の署名、捺印が要るので、毎年担当の学生諸姉諸君が連絡をしてアポをとり研究室に来ます。活動報告、会計報告、合宿許可、練習場使用許可、学園祭の関係その他です。部員の確保が困難で大変な年もあったり、男女の比率が適当ではなくて悩んだりするケースもありました。
また、練習場の確保に苦慮しているのを横から見て、何とか力になれないものかと思いましたが、大学の組織が大きくて、本当に難しいと実感しました。部員たちは、制約がある中、7号館の音楽室や1号館の教室の机や椅子を移動させた空間で、よくぞ練習を続けてきたものです。
私は、日曜日教会に通っているので、試合の応援には数えるくらいしか行けていませんが、初めて行った時は、正直言ってついていけませんでした。教育関係者として見てしまったからでしょう。近年、久しぶりに獨協大学に足を運んだ折りには、競技ダンスを人間の身体表現の可能性を素晴らしく発揮している文化として捉え直すことができました。
ダンスを含めてスポーツが競技志向になりすぎると、そこには楽しさより厳しさ、辛さが伴ってきます。しかし、矛盾しているようですが、人間はただ楽しいだけではなく、苦労を乗り越えて上手くなった時の方が、より充実感を味わえるものなのでしょう。
卒業生の中にはプロになった方もいて、50周年記念パーティでは、モダンとラテンそれぞれのプロの方たちによるデモンストレーションが、学生たちを大いに刺激しました。一方、今までにお世話になった指導者の方々や、OG・OBの方々が現役の学生たちと楽しそうに踊る姿も心温まるものでした。
ここ何年かは部員の数も、活動内容も充実しているようなので、この調子でさらに青山学院大学競技ダンス部の新しい時代を築いていってほしいものです。
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「学生ダンスの歴史を変えた青学」
元全日本学生競技ダンス連盟理事長 早稲田大学OB 岡田 昭一
「この度、青山学院にダンス部を創りました本多と申します。学連に参加させていただきたいと思いますのでよろしくお願いします」
学連にとって青山学院のように知名度もありイメージの高い学校の参加は大歓迎だったので、すぐに学連加盟は承認されたのですが、学連に出てきた本多氏の言動は衝撃を与えました。「青学は部員同士の学生カップルを目指しています。今の学生競技会はとても学生とは思えないパートナーが多勢出ている。学連はまず学生同士のカップルでの出場を義務づけるべきです」
聞いている私たち大手校(早・慶・東・明・法・立・日・工)の役員は、言っていることは正しいがそう簡単にはいかないよと、思っていました。競技会は勝たねばならない、そのためには上手なパートナーと組む、これが当時の大手校の常識でした。(単にダンスを楽しむだけの同好会は学連には参加が許されなかったので)
しかし、本多氏は熱心に各校に働きかけ、アマチュア規定を明確にし、学生のカップルで出場する今のスタイルを実現させたのです。それにより、女子大の多くがダンス部を創って学連に参加し、それを契機に女性の少ない大学も続々加盟し学連は飛躍的な発展を遂げました。各校も学生同士のカップルで如何に闘うかにその方向を大きく変えてきたのです。本多氏はそれまで大手校で独占していた理事に選ばれました。新規加盟の学校では異例のことです。
今、プロのダンス界の選手も主流は学連出身の元学生カップルですし、現在の学生ダンス競技会で学生カップルが生き生きと踊っている姿を見る度にこの学生ダンス本来のあり方を追求し、当時の学連の目を覚ましてくれた青学と本多氏に頭が下がる思いです。
---------------------------------------------------------------------- 「想い出の写真」
青山学院大学競技ダンス部OB会 会長 昭和37年度卒 平沢 徳久
創部当時、社交ダンスは風俗営業法の適用業種で世の中からは白い目で見られていた時代で、良家の子女が気軽にダンスなど出来る雰囲気ではなかった。創部したのはよいが、しばらくして、このままでは部(会)が成り立たなくなるくらい部員が減ってしまった。
何かイベントをやりPRしようと、初代会長の錦見さんの発案でデモダンスをやる事になった。学生部に交渉して青山祭の前夜祭でデモダンスをやる事に決まった。
「馬子にも衣装」で、生まれて初めての燕尾服でやる事になった。スタジオの先生の借り物である。当時の競技会は詰襟の学生服だった。 私はスタジオで習い始めて間がなく恥を掻くのは覚悟のうえだったが、一通り踊り終えて挨拶も終えたが、なんとまだ曲が鳴っているではないか!!。先生からは「少し速かったのでは・・」と声を掛けられる始末であった。覚えた足型をこなすのが精一杯で音楽なんか聞いていなかった訳である。あれほど恥ずかしい思いした事は今だかってない。
このデモの効果があったどうかは分からないが部も存続して、今年創部50周年を迎える事ができ感無量である。今後も部の一層の発展を願う次第である。
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「青春のワルツ」 昭和47年卒 越村 強
青山学院大学舞研創立10周年記念を、錦見、本多、石川先輩諸氏をお迎えして、原宿の東郷記念会館にて現役時代主催してから、早40年の歳月が過ぎ去り、今、ここに、50周年記念を祝う宴席に臨席しております。10年一昔とか申しますが、四昔前の思い出をうろ覚えのなか、少しだけ書き残します。
我々が入学した昭和44年当時は、全共闘運動が華やかかりし頃で、東大安田講堂ロックアウト開放後、その関連で東大入試は中止、その影響でその他の大学入試にもかなり影響をもたらし、我々戦後団塊の時代の真只中にいた受験生は大変苦労をさせられました。
早稲田、日大、法政、明治のキャンパスは、荒れに荒れておりましたが、蔦の絡まるチャペルと銀杏並木の我等が青山キャンパスは比較的穏やかでした。そんな中ひょんな縁で舞研に入部した我々は、従来のお坊ちゃまタイプではなく、まったくもってして、泥臭く、無骨で、田舎もんの典型でありました(当時お坊ちゃまもいらしたことはいらしたのですが、自然淘汰と申しますか、いなくなってしまいました)。
当時、主将の竹内さんは、映画の[しこ踏んじゃった]に登場した、竹中直人扮するあの相撲部の主将のように、それまで舞研存続のために、孤軍奮闘しておりました。映画と同様,ことごとく一次予選で大敗し、我々は余儀なく他校の選手達の競技を長々と見続ける一年間でした。それに奮起した我々は、我武者羅に練習に明け暮れました。竹内先輩の紹介により、菊地孝治、由利子先生をご紹介され、新宿の田代ダンス教室に通いました。やさしい男先生は女子に人気の的でしたが、由利子先生の厳しさは、並大抵ではありませんでした。
基本ステップの繰り返しを徹底的にしごかれ、カップルのダンスに対する打ち込む真摯な姿勢が見えない内は、全く手を貸してくれませんでした。それでも負けずに、皆通ったものでした。あの狭い教室に、男子ロッカールームは、屋根なしの青空ロッカーでも楽しかった。自分達のステップが少しずつ増えて行くことに。そう言う小生は、その厳しさに堪えられず主務に専念することになりました(部員の父兄の方に撮っていただいた8ミリの中、がにまたのスリーステップを踏む私と、同じように、がにまたで付いてくるパートナーの姿を見て、競技生活を断念)。
高校時代の体育系が多かったせいか、お金を払って技術を教えて貰うことに多少疑問を抱きつつ(当時湯水の如くお金を使い、教習場に通って、良い成績を修めている者も他校にはおりましたが)アルバイトで金を稼ぎ、日夜研鑽を積みました。競技のユニフォームでもあった学生服にしても、当時ですら、オーダーメイドの学生も数名おりましたが、我々含めて一般選手は、肩のパッドを取ったり、肩が持ち上がらないように、ゴムで押えたり、いろいろ金を掛けずに工夫して、試合に挑んでおりました。そんな貧乏同好会でありましたので、当時の金庫番片山サブマネには随分苦労を掛けさせました。
起死回生(当時はそんな覚悟でした)で青山祭に出店したわんこそばの企画はおおいに当たり、多少の資金を稼ぐことが出来ました。これも今だからお話できますが百杯以上食べた方無料!百杯に近づくと、少しずつ一杯の量を増やし、かなりの学生をノックアウトしていました。そんな甲斐がありまして、フォーメーションに使用するきれいな純白のドレスも用意することが出来ました。それもこれも、皆女子部員全員での手作りです。わんこそばのユニフォーム、絣のきものにあかねの襷、かわいいおそろいの前掛け、お店のレイアウト,呼び込み、皆手作り尽くしです。選手たちも、裏方も皆一緒に汗を流して苦労しました。
我々が4年の時、根岸主将の下、青山ここにありといった成績を残す事が出来ました。皆の努力の結晶で、フォーメーションも優勝。まさしく努力の結晶でした。ぶつかられても、ホールド維持せよ、ぶつかり返せ(おいおい、格闘技ではありませんよ)そんな勢いでした。
あの頃は、まだまだ男社会の時代でした。いまだにデリカシーのなさを反省しております。夏に2回も合宿したり、男女兼用のぼっとん便所しかない民宿に泊らせたり、ハチマキさせて、かなりの距離を走らせたり、たくさんあった試合の度に、お弁当を人数分作らせたり、これまで、行った事もなかったガード下のもつ焼き屋で、アカペラで春歌を聞かせたりその当時、在籍していた女子部員の皆様、ほんとうにごめんなさい。(謝るつもりで出席したら、夢の玉手箱、あの当時のお嬢様達は何処へやら、綾小路の気分です。)
華やかな衣装のもと、華麗に踊る現役諸君!僕の青春のワルツはそんな訳で、泥臭いけど思い出一杯のほろ苦い味がします。皆様も、ず?っと続けて、あなた方だけの思い出のワルツを見つけて下さい。
最後に、天国にいる、桑山、加藤、もうしばらく待ってくれ。また皆で語ろう、思い出話を……
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「奮い立つ刹那に向かって」 昭和48年卒 松崎 正昭
今 改めて振り返って 昭和46年?49年希望と困難と憂鬱の間で悶々と過ごした4年間でした。もっと高密度に高純度に過ごせば良かったと思う後悔は、今だからかも知れません。反ブルジョワジー闘争的な感慨に溺れた時期もありましたが、競技ダンスは「コンテストではなくコンペティション」に発奮して終盤は、体にも心にもたっぷりと汗を流しました。何のスポーツもそうだと思いますが、成果という刹那を輝かす為には、森羅の苦難と理不尽を消化しないといけないし、偶然を必然に変えていく終わりのない作業だとも思います。やはり勝負は、晴雨なく運不運なしです。
猿ヶ京や富士見高原や戸狩の強化合宿、最後の両国講堂の全日本。蹉跌も栄光も爽やかな風でした。先輩に恵まれ、同輩とパートナーに恵まれ、後輩に恵まれ、指導者に恵まれました。又良きライバルにも恵まれました。後ろからハンマーで殴られたような衝撃や得も言われない達成感 又挫折感。飽くまでも淡いセピア色の中での彷徨。セレンディピティは、今も息づき永遠に継続します。
創部50周年 襷は間違いなく繋がっていると思いますが、現役の皆さんは、更によりよい連鎖を目指して貰いたいと思いますし、過去を迷わず、未来を願わず、今日すべき事を新たなスタート地点に据えて「始まり」に渾身の力を注いで貰いたいと思います。
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「ダンスとの関わり方」 昭和50年卒 今寺 隆政
青学大競技ダンス部が長きにわたり継続運営され、今年創部50年を迎えたことに喜びを感じております。
私たちは学生時代、競技ダンス一筋に取り組んできましたが、もちろん世間には社会人を中心としたいわゆる社交ダンスを楽しみに踊っている方々がいます。またプロの教室でレッスンを受け、先生とのデモンストレーションを行うことに楽しみを見出している方々もいます。いずれにしてもダンスと係わり、ダンスを楽しんでいます。
50周年パーティーで、OB・OGの方々が楽しそうにダンスを踊っている姿を拝見して、学生時代の競技ダンスにこだわることなく、より多くのOB・OGが今後も何らかの形でダンスと関わっていただきたいと感じました。
OB・OGがそれぞれのスタンスでダンスと関わりあい、ダンスを通じてOB同志のコミュニケーションの輪が広がり、それが現役との良好な関係へと発展して、青学大競技ダンス部の総合的なパワーとなることが、OB会としての現役支援のひとつになるものと私は考えております。
この50周年を機に、OB各位がダンスを再開し、再び学生競技ダンスや現役の活動にも積極的に関心を持っていただき、総合青学大競技ダンス部の発展に繋がるよう、OB会活動にも参加していただくことを切望しております。
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「青山学院舞踏研究会を振り返り」 昭和55年卒 塩澤 一郎
この度9月に50周年の記念パーティーが開催され無事終了致しました。現役時代にはよもや50なんて数字は思いもよらないことでした。50と言う数字は簡単に言えますがこの間に何人もの方々が多かれ少なかれ我部に関わり社交ダンスに触れ合ってきたかと思うととてつもなく重い数字であること、身が震えそうです。そこに参加できたこと非常にうれしく思います。奇しくも私の4年の時のゼミの伊藤先生が学長となられこのパーティーにご出席されるとは夢にも思いませんでした。
全くゼミには参加もせず最後の卒論は最低評価の出来の悪い生徒でありましが大学時代をダンスに捧げていたことで先生も許してくれるでしょうか?自分では卒業して30年あまりこの成績が悔やまれてなりませんでしたが先生に来ていただいたことで、これで無事卒業できたのかなーと何となくホッとした気分になりました。
振り返るといろいろなことがあった4年間でした。この4年間は全て舞踏研究会を中心の生活であり皆が家族のようでした。50周年に懐かしい顔がそろい久しぶりにダンスをし、現役に戻った気分でしたが1人どうしても参加してもらいたかった後輩がいます。私が4年の時の2年生だった佐武君です。今幹事で皆様の面倒をみてくれている木島君の同期です。現役時代は非常にやんちゃで先輩に逆らうこと多々、自分の意見をはっきりと主張する一本気な性格でしたが、反面“先輩、先輩”といかつい図体をして慕ってくるところが何となく憎めなく、当時はパートナーには恵まれず大会にもほとんど出ることが出来なかったのですがダンスとこのクラブを誰より愛して止まない男でした。
OBになってからも練習会に飲み会にと後輩の面倒を見、また仕事で赴任したシカゴでもダンスを続け、アマチュアの大会に出たときのビデオをうれしそうに私に見せてくれたその姿昨日のことのように思い出されます。不幸にも40歳で他界され残念ながら今回のパーティーには出席適いませんでしたが私の隣でギャーギャーと吠えていたような気がしてならず、彼がこのパーティーを何より喜んでいたのではないでしょうか?
競技ダンスをやっている限り勝つことが定めではありますが競技生活以外でもクラブ活動を仲間と共に大いに楽しむことは出来ます。卒部をしても集い、飲める仲間、そしてこのパーティーのようにいつまでも我々OBを受け入れてくれる現役の方々。これが青山の舞研のいいところではないでしょうか?
いつまでも現役の気分でいられるようOB、現役が共に協力をし合い周年記念を重ねられるよう願って止みません。
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「祝・青学舞研50周年」 昭和56年卒 吉澤 至孝
僕が4年生の時、新宿のエスカイヤ倶楽部で20周年記念パーティが催され、あれから30年の歳月が流れた。思い出の写真に写っているあの人達は今どうしているのだろうか。人間関係で葛藤しながら必死に過ごした青春時代の熱い思い出は、普段は影を潜めていても心の奥底では輝き続けています。
新人勧誘での無料講習会で初めて女性の先輩と踊った時のドキドキ感に始まり、新人歓迎会、新歓旅行、恵比寿でのダンス講習会、春・秋の競技会、夏合宿、ダンスパーティ、青祭、クリスマス納会など思い出は尽きません。中でも競技会後の打上げで最後はお決まりの円陣を組んでのカレッジソングとエール。竹の子族がはやっていた頃に代々木公園での青学フォーメーション族。僕がトレ部の春合宿で男の先輩方と濁り酒を飲み過ぎて翌日の朝練に寝床から起き上がれず、後で男性陣が女の先輩方に真剣に怒られ反省した事、など。また、電車を待つホームで無意識にホールドをしていた事も度々あり、踊りは人間の本能だと思いました。ましてや素敵な女性と息のあった踊りができたら至福のひと時と思います。
現在はダンスそのものとは無縁の生活を送っていますが、飲み会後の帰宅途中では良い気分で“カレソン” “学生時代”を口ずさむことがあります。会社での人間関係は定年まで40年近く続きますが、あの学生時代の4年間で培った深い繋がりを得るのは中々難しいと感じています。良き仲間に恵まれ今もたまに集まって当時の思い出話で大笑いしたり、舞研の行事に出席させていただき交流をもてることが学生時代の最大の収穫です。
最後に、先日の50周年記念パーティですが、大変に盛況で夢の様な時間を過ごさせていただきました。現役の方々の初々しい中にも巧みなステップ、プロの方々の華麗なデモストレーションに感動し、皆僕の後輩達だと思うと誇らしく感じました。また、ご来賓の早稲田OB岡田様、由利子先生、顧問の河本教授はじめ伊藤学長までご出席いただき、岡田様からは青学舞研が学連に加盟を申し込んだ際のエピソードを伺いました。本多先輩の“パートナーはアマチュアから”という働きかけが、その後の学連のアマチュアリズム化へのきっかけになったということで、改めて発足初期のOBの方々のご尽力への敬意と青学舞研OBであることの誇りを感じました。
この様なすばらしい記念パーティを企画・開催していただきました幹事の皆様、大変にありがとうございました。
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「学生時代の思い出」 昭和56年卒 今牧 高男
私は昭和53年4月青山学院大学に入学しました。当時のことを思い浮かべてみました。入学式を終え今後の学生生活についてオリエンテーションを聞きに登校しました。その帰りの出来事です。当学はこの日が各部にとって新入生獲得の絶好の時期であり正門から奥は新人獲得合戦が繰り広げられておりました。その日は曇天でした。私はアメリカンフットボールの男性部員から“うちに入らない、楽しいよ”と勧誘を受けました。私はそこで考えました。今まで激しいスポーツをやってきたことがありません。高校の同級生でラグビー部員がいましたが、彼は肩を脱臼する癖がついてしまい、痛がっている様子や包帯を巻いて登校してくる様を見ていたので、即座に“私には出来ません”とお断りしました。しつこくしなかったのも数打ちゃ当る、だったからでしょう。
その後も私はものめずらしそうに一人で歩いていました。すると今度は2人の女性がいきなり私の背後から近づき私は両腕をとられました。女性が向こうから寄ってくるなんて事は生まれて初めてのこと、気を良くした私は言われるままに足を進め気がついたら3階の部室に来ていました。部室ではこのクラブがどんな活動をしているのかをアルバムをめくりながら説明をされておりました。競技会の写真を見せながらダンスのすばらしさを語っておられたのを記憶しております。そこには女性しかいませんのでとても癒された気持ちになり好印象でした。その後なぜか部室に足を運ぶようになり、そこで新入生の友人が多く出来ました。
このような日々を送っているうちに、新入生歓迎コンパ、新歓旅行、恵比寿区民館で無料講習会など矢継ぎ早の行事に参加しており、気がついたら完全に部員になっておりました。
新歓コンパでは銀座のアシベという当地一流の場所で歓迎を受けましたが、急性アルコール中毒になり最寄りの菊地病院で一晩過ごし、一命を取りとめました。病院のベッドの上で意識が戻ったとき眼前には上京してきた母親と伯母の2人がいました。散々心配を掛けましたがお昼過ぎには歩いて帰ったことを覚えております。そのとき意識が戻るまでずっと付き添っていただいたもう一人の方が後の大主将塩澤一郎さんです。塩澤先輩にはこのことを皮切りに言い尽くせぬほど多くの苦労をお掛けしてしまうことになりました。
話を戻しますが、新入部員は当初男性10名、女性10名くらいの大所帯で和気あいあいとしておりました。辞めた部員も今頃どこで何をやっているのか気になります。再会できればよいのですが無理でしょう。
入部後の本格的な活動として毎週水曜日と土曜日に練習会がありました。1年生は10月に開催される桜門戦に向け定期練習のほかにも教室を借りて練習をしました。この時点で部員は男女各5名となっておりました。来る桜門戦でいい成績をとりたいと思う気持ちで一杯でしたが心のどこかで部員の減少を寂しく思っておりました。私の桜門戦の結果は3次予選まででした。予選で落ちてしまい非常に悔しい思いをしました。1年生の時の思い出としてはクリスマス納会があり、楽しい1年間を過ごしました。
3年の時のエピソードとして、夏のリーダースキャンプに行ったときのことです。周りの人たちは今度の2部戦のクイックステップの優勝者は今牧に間違いないともてはやしておりました。私には何のことかわかりませんでした。確かに当時優勝と目される人は東洋大学の4年生は記憶しておりましたが、まさか私がそこに入ってくるとは思ってもいませんでした。結果は第2位でした。原因はいつも通りやれば優勝できると甘い考えを起こしていたからです。練習も切羽詰ったものは全くありませんでした。かたや4年生という最終学年で1部戦出場のかかる大事な試合。何よりも後輩に負けられないと必死の思いで練習されたに違いありません。お2人からにじみ出る真剣さのオーラは私とはまったく違い審査員の目を留め、見事優勝されました。このことで私は奮起し今まで以上に真剣に練習を行うようにしました。
感謝を忘れてはならない人にパートナー戸沢登茂子さんがいます。彼女は幼少よりクラシックバレーやタップダンスを習い非常に俗に言う“バランスが良く”非常に踊りやすいパートナーでした。誰もがそう言っておりました。又絵画も得意で芸術性の高い女性であり私にはもったいない存在でした。周りからはよくパートナーのおかげだと言われ続け反論しておりましたが卒業して初めて本当だったことがよくわかりました。当時は自分勝手なダンスばかりしてきましたので、今となってみればもう少しパートナーが踊りやすいダンスを心がければよかったと反省しております。ダンスはパートナーが踊りやすくパートナーを綺麗に見せるものなのでしょうか。
以上のように私はこのクラブ無くして大学生活はありえないくらい4年間を燃焼させました。多くの先輩と後輩に会えることが出来、今こうして思い出を書く好機を与えていただき大変ありがたく思っております。紙面の関係で思いを言い尽くすことが出来ません。まだまだ多くのエピソードがあります。また機会がありましたら続きを書きたいと思います。現役の皆さんに一言、この部に自信を持って行動し、学生の本分である勉学も両立させてあらゆる難局を乗り越えてください。出来る事があればOBとして協力致します。それでは今まで私を支えて頂いた全ての皆様に感謝を申し上げ終わりにします。
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「無題」 平成10年卒 新鞍 貴浩
現役の頃の思い出深い出来事というと、やはり合宿、しかも一年生の初の夏の合宿が思い出されます。まず、なんといってもトレーニングです。
私たちが一年生の頃は観音温泉に宿泊しており、あまり運動するスペースが周りになかった為筋肉トレーニングは駐車場、ランニングは近くの坂道を使い、砂利道を往復しました。炎天下のコンクリートはとても熱く、背筋や腹筋は身体が火傷しそうなくらいでした。
そして全員手には軍手をして側筋。今思うとよく熱中症にならなかったものだと思います。終わった後は喉がカラカラで炭酸飲料をよく一気に一缶飲んでいました。
地獄のようなトレーニングが終わったと思いきや、次に続くは伝統の三大イベント。1時間ホールド、1時間ボックス、マイルクイックです。今思うとどの基準でマイルなのか不思議ですが(笑)。
下級生の部屋はずっとサロンパスの匂いで充満していましたね。どのイベントも最後に妙な達成感がありました。今まで体験した事がないほど苦しい思いをしましたが、それを乗り越えたということが無意識に自信になり、強く心に残っているのかもしれません。
トレーニングやイベントは今でも受け継がれているそうですね。
現役の頃は正直、先輩が怖かったからやっているけどこんなんでダンスは上手くならないじゃないか!と思っていましたが、卒部して十数年経ち自分の中で良い思い出になっていることを思うと、これからも受け継いでいってもらいたいですね。
現役の皆さん、頑張って!
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「無題」 平成11年卒 高見澤 健
この度、創部50周年記念ということで青山学院大学競技ダンス部(当時、舞踏研究会)の思い出を書きたいと思います。
私が入部したのは1997年でした。当時は「SHLL WE DANCE」が映画化され社交ダンスが世間的に知られるようになってきた時代だったと思います。私は姉が他校の競技ダンス部に在籍していたこともあり、競技ダンスがどういうものかはビデオなどで知っていました。ただ、どちらかというとダンスに興味があるというよりも女の子と手を握れて仲良くなれるという下心いっぱいで見学に行きました。
新入生歓迎コンパで先輩方にたくさんビールを飲まされ先輩の家に泊めていただいたこともあり次第に抜けられなくなりそのまま入部するようになったと思います。私が1年のときは男子が7名、女子はたったの3名というなぜか男子が多いという代でした。先輩も4年生に女子1名、3年生に男子2名、女子1名、2年生に男子3名、女子4名ととても少人数の部活でした。ただ少人数なだけにまとまりはよかったと思います。部室に行けば大概の日は飲みに行き練習会の後にも飲みに行くといった感じでした。
夏には強化練習、合宿がありましたが練習内容はとても厳しく足に血豆はできる、声はかすれるなど、とても内容の濃いものでした。マイルクイック、1時間ホールド、40分スクエアなどそれはもう死ぬかと思うような合宿伝統行事もありました。合宿中日にはみんなで山中湖にてボートに乗り、湖に飛び込んだりもしていました。
当時は合宿半ばになると菊地先生夫妻が練習を指導しに来ていただき、先生が自身の頭にバケツを乗せてルンバウォークをして「ルンバとはこうだ!」と教えていただいたこともありました。きつい練習でも先輩方に優しく面倒を見ていただいたことで笑いあり泣きありの合宿生活だったと思います。
私が上級生になってからはひたすら練習に打ち込んだ気がします。午前中に練習場で練習を、午後練習会で下級生に指導をし、終わってからスタジオや練習場に行き、また練習するといった生活でした。そのため学校の授業にはほとんど出席せず、単位がとても危なく卒業には大変苦労しました。練習の甲斐があってか、4年生最後の全日本戦でパソドブレの部ファイナル入りを果たしソロで競技することが出来ました。
ソロで競技をした時の緊張と興奮が忘れられず、卒業後もアマチュアとして競技ダンスを続けていますが、女の子と仲良くなろうと思って入部していつの間にかダンスの魅力に引き込まれ現在にいたるのは、青山学院大学競技ダンス部との出会いがなければなかったことだと思います。
50周年という節目に青山学院大学が一部校になり、東都戦で団体2位という快挙をなしたことにとても嬉しくこれからの更なる活躍を期待したいと思います。
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「ダンスと私」 平成13年卒 U.Y.
私が青山学院大学競技ダンス部、当時の舞踏研究会に入部したのは、例に洩れず新歓の飲み会がきっかけでした。初めて足を踏み入れた本厚木の居酒屋で、サワー=炭酸ジュースと思い込み、勧められるがまま飲んでいたような記憶があります。
その後、ステップ講習会、練習会、競技会、合宿と、あっという間にダンス漬けの生活になりました。踊れるステップが増えていく度にダンスが好きになり、授業後には練習、休日も練習。ドレスを着られる日を待ち望み、アルバイト代はほぼ全てダンスのための資金と化しました。
もちろん部活動という性質上、楽しいことばかりではなく苦い思い出もたくさんあります。しかし、何事もダンスのためと思って頑張れた4年間は、それまで勝負の世界とは縁のなかった私の忍耐力や向上心、積極性や協調性など、様々なものを養ってくれました。
最も記憶に残っているのは、4年生最後の秋東都戦です。そのとき部内の雰囲気はあまり良い状態ではなく、自分は喘息のような咳を患っていたため、精神的にも身体的にも非常に辛い競技会でした。その中で、パソドブレの二次予選終了後にヒート表を見に行ったリーダーが、二階席に向かって両腕で大きく○(まる)を描いたときは、嬉しくて泣いたのを覚えています。レギュラー戦で初めて準決勝に残った瞬間でした。結果は下位決勝でしたが、私達にとっては4年間で最高の成績でした。
現在私は、仕事をしながらアマチュアで競技ダンスを続けています。もし当時ダンスをやっていなければ、同じ趣味を共有できる人生の伴侶(兼現在のリーダー)と出会うこともなかったでしょう。それも含めて、ダンス部での生活が私の人生に大きく影響を与えていることは間違いありません。そしてきっとこれからも、私はダンスと関わって生きていくと思います。
最後に、青山学院大学競技ダンス部に感謝すると共に、現役生の今後のご活躍をお祈りいたします。
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「無題」 平成17年卒 草薙 まり
創部50周年おめでとうございます!私は2002年、ちょうど40周年のころ入部し、女子部長/ラテン専攻として部活に所属、熱い4年間を過ごしました。
当時は現在の現役世代ほど大きな部組織ではありませんでしたが、練習・トレーニングや部活の運営に、学生なりに頭を悩ませながら取り組んだと記憶しています。2年生のときには相模原キャンパスが開かれ、理工学部の私はO棟の研究室とM棟の部室を拠点に学生生活を送りました。
卒業後、私は競技ダンスの世界から離れてしまいましたが、当時の仲間たちとは今でも時折集まり、楽しい時間を過ごしています。同期の女子4人は年に1度は集合していて、大学生当時と変わらないかしましさで大騒ぎしています。
今年は「私たちが出会って10周年」でもありました!競技ダンス部が毎年世代交替し歴史を刻み続けるのと同じように、ダンスを離れても、仲間たちとの絆がずっと続いていくのが楽しみです。
60周年、70周年、その先も、ずっと変わらず仲間でいられますように。
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「無題」 平成21年卒 高橋 茉那
創部50周年おめでとうございます。卒業して2年が経ちますが、今も私の心は競技ダンス部の皆と過ごした日々の思い出で溢れています。こんなにも夢中になれるものに出会え、4年間没頭できたことをとても幸せに思います。
私がいた4年間で部活の規模や雰囲気も随分変わりました。ちょうど青学の「変革期」と言っても過言ではないかもしれません。そんな中でカップルを組ませていただいた私は、青学を強くしたい、皆を引っ張っていけるように頑張りたいという思いが大きく、その一心で最後まで駆け抜けたように思います。
特に私が印象深いのは、目標であった夏の全日本戦(夏全)と一部戦に出場できたことと、モダン技術指導部長を務めたことです。3年生の時に実現した夏全出場は部にとって何十年ぶりの事で、とにかく嬉しくて涙が出たのを覚えています。皆で同じ目標や喜びを分かち合える素晴らしさ、団体戦の面白さを感じられました。翌年には、夏全に加えて一部戦にも出場でき、これも何十年ぶりの事で当時の私にとっては夢のようでした。今、改めて部活の歴史的な出来事に携われたことをとても光栄に思っています。
技術指導部長は、部員数が多かったのもありとても難しく大変な役職でした。しかし、後輩の成長にたくさんの喜びと感動をもらい、大変なこと以上に大きなやりがいを得られました。自分の未熟さが情けなく思うこともありましたが、先輩や同期にいつも助けられ、後輩達から様々なことを教えてもらったように思います。私自身が成長できる機会をいただけたことに感謝しています。
4年間を通して決して楽しいことばかりではありませんでしたが、私が最後まで部活を続けられたのは大好きな先輩、同期、後輩のおかげだと思っています。本当に本当にありがとうございました!!そして、卒業してからも変わらない大好きな仲間との繋がりは、私がこの部活で得られた1番の宝物です!!
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「無題」 平成22年卒 中根 大幾
部活を通して印象に残っている事は3つあります。
1.一年夏合宿
まず始めにあげられるのはこれでしょう。
夏合宿の確か後半の方の夜、疲れきった同期と深夜寝ているとライトセーバーを持った当時両技術部長だったPこ太さん、N山さんが突然部屋を荒らしにきたかと思えば、何故かほぼ全裸のA葉さん(いつもですね)とともに体育館に連れて行かれ、パン一でボックスをやらされるはめに。同期のT岡君は半切れでした。
その後も深夜の風呂場で酒を飲んだりと、親代の先輩には楽しい思い出をたくさん作って頂きました。お互い現役生活は終わりましたが、これからもよろしくお願いします。
N山先輩、結婚式よんでください笑。
2.技術部長
幹部役職はラテン技術部長をまかさせて頂きました。当時の私には至らない点も多く、最後まで役職を全う出来るのか心配でした。
しかし、アツい後輩たちに恵まれたおかげでいい意味でも悪い意味でもプレッシャーをかけられ、単位を捨ててでも頑張るしか無いと覚悟しました。
あ、留年はしてませんよ笑。
当時至らない僕を支え、アドバイスくれた、先輩、同期の皆様、本当にお世話になりました。特にT岡君には、お互い辛い中、いろいろ支えて頂き本当に感謝しています。
3.学生競技ダンス連盟理事
最後は四年間で一番忙しかった。
ひょんな事から、他大学の先輩に立候補させられ、一番楽なはずの4年生が、一番忙しくなりました。あまり青学の部活動とは関係ない事なので長く書くつもりはありませんが、僕が理事になった事で少しでも青学の知名度向上につながり、貢献できていれば幸いです。
同期理事の方々とは時に仲良く、時に厳しく仕事をする事が出来、本当に感謝しています。
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「無題」 平成22年卒 花村 眞有
この度は創立50周年おめでとうございます。貴誌発行に少しでも貢献できたことを嬉しく思います。
さて2011年度は卒部して1年目の年でしたが、その年に青学競技ダンス部は数々の目覚ましい好成績を叩き出し、天野杯では「団体優勝」という見事な成績を納めました。よく「俺らは化石だ」と現役時代ぼやいていましたが、その化石が卒業して1年もたたない内に偉業を成し遂げた現役生は恐るべき後輩です。怪物です(笑)。
ほんの数年前の入部当初、二部校だった青学が、東部で「団体優勝」を飾るとは、とても想像できなかった光景です。そんな入部当初から4年間を振り返ってみると様々な“感謝”の思いがあります。
現役時、私はとにかくダンスを踊りたかったので、部員同士のお食事や飲み会に誘われても付き合い悪くお断りしていました。そんな無愛想な私でも先輩方は、質問すると丁寧に教えてくださいましたし、先輩自ら指導してくださることもありました。
又、カップル組みたての頃はリーダーとコミュニケーションがとれず、『なんで私の気持ちわかってくれないの』と1人悲劇のヒロインで(痛い)、負のオーラに塗れていると先輩から声をかけてくださり、夏合宿の貴重な練習時間を削ってお話を聞いてくださいました。特に親代のラテンの先輩方にはメンタル面で大変お世話になりました。
又、同じ年からダンスを始めた同期からは常に刺激を受けました。音楽室に行くと大体皆の定位置がありました。
優美とシャロンは、スチームか教壇の上でまるまってる。和美はもくもくと鏡の前でクカラチャ、もしくはマックのポテトを食べる。ジャスコはhip-hopサークルのようなカッコでバチカタをし、デビはよく弟学年のリーダー達に囲まれ、遊ばれる。モダ女のフェニーとおしげは基本的に後輩指導で、それ以外のフェニーは怒っているか、たつあきと踊っているか(笑)、おしげは後輩のお話を聞いてあげているか何か食べている。とららは、教壇にちょこんと座ってご飯食べて私服でさっと踊って授業に行く、勉強家。
私の目から見た音楽室の風景はこんな感じでした。懐かしいです。(リーダーは省略)
この様に練習場では食べているかダンスをしているか、リーダーはよくジャンプを読んでいるか、寝ているか(大体バイト疲れ)のちょっと緩そうな団体ですが、この空気感があったからこそ、踊りたくない時もドアを開ければ誰かしらそこにいるという安心感で毎日音楽室に顔を出し、結局練習をして帰っていました。
又、こんな纏まりのなさそうな同期に見えて、それぞれが舞研やダンスのことを色々なカタチで大切にしていて、そんな思いやりのある同期は今更ながら宝物だと感じます。
そして、強化練習に来てくださるOB・OGの皆様からは、自分にはなかった新しい視点からのお話やダンス指導、デモ発表をして頂き大変刺激を受け、勉強になりました。
又、最上級生となった4年生での試合に、OB・OGの先輩方が応援に来てくださった時は、普段先輩の立場でいることから、急に弱音を吐いてもいい後輩へと変わり、心の大きな支えとなりました。有難う御座いました。
この様に振替ってみると、「団体優勝」は、まさに現役生の日頃の練習の成果そのものなのでしょうが、その練習する意欲や習慣・環境を生み出したのは、歴代の卒部生の方々の舞研に対する様々な愛の形が結びついているのではないかと思います。
向上心のある今の現役生の方々は、是非4年間続け、次の代の後輩に「青学舞研」を受け継いでいってほしいなと思います。
今後益々の母校のご活躍を祈願しております。
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「無題」 平成24年卒 金沢馨介
この度、今年度卒である私を50周年記念誌という特別なものに載せていただき誠にありがとうございます。
私が、この競技ダンス部に入部して一番印象に残っているものは、先輩方との関係です。
過去、小中高と、様々な部活に所属しておりました。そこにおける先輩との関係は、字に書いたような上下関係でした。先輩と話すときは、目も見ることができず、常に手に汗握っていました。プライベートの話や相談などできるわけもありませんでした。
しかし、競技ダンス部での関係は、今までとは、全く違うものでした。競技ダンスは、他のスポーツとは違い、一目見たから踊れるというわけでもなく、初心者である私に、手取り足取り、指導してくれました。
また、楽しいイベントや、卒業されても試合に応援に来てくれるOBOG様もいました。ダンスであろうが、プライベートであろうが、落ち込んでいるときには、相談に乗ってくれたり、遊びに連れて行ってくれたりしました。
競技ダンス部の先輩は、小中高での先輩たちとは違い、先輩でありながらも、兄弟、または友達のような関係を築くことができたことが、競技ダンス部に所属して、一番の宝となりました。
このように50周年という長い歴史が続いたのも、諸先輩方のおかげであります。今後、競技ダンス部の益々の発展を願っております。