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岡山県支部

シリーズ34 〜わたしと青山学院〜 新田 文輝様(1967年経済学部商学科卒業)

2022.10.27 更新
経済学部生がいかにして
文化人類学者になったのか?


新田文輝

学 生 時 代
     つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日
     夢多かりしあの頃の思い出をたどれば
     懐かしい友の顔が 一人一人浮かぶ
     重い鞄を 抱えて 通ったあの道
     秋の日の図書館の ノートとインキの匂い
     枯れ葉の散る窓辺 学生時代 . . .
                  作詞:平岡精二


(写真1:懐かしい1号館)


はじめに
青山学院大学(以下、青学)にわたしが入学したのは1963年、当初は今で言う国際ビジネスマンになりたいとの考えから経済学部商学科に所属。同時に、当時東京の西部にあった立川米軍基地で働き始めました。最初から仕事をするつもりで入学した苦学生です。仕事はフルタイムで、午後4時から8時間、または16時間の夜勤でした。1967年に卒業後、紆余曲折を経て27年後の1994年に、アメリカのパスポートに教授ビザを取得してハワイから高梁市にある吉備国際大学に赴任することになります。専門の文化人類学と関連科目を教えて、2015年に名誉教授として退職、今なお倉敷に住んでいます。以下では青学時代の学業と職業経験がどのような影響を与えて、現在のわたしがあるのかについて振り返って見ます。

(写真2:礼拝堂外観)

キャンパスライフ
青学を選んだひとつの理由は、都会的でおしゃれな雰囲気があるという表面的なものでした。それより重要な理由は、キリスト教に興味があったからです。キリスト教概論では若くて熱心な先生の講義が好きで、そのこともあり多くの学生が休み時間として使っていたチャペルタイムにはよく礼拝堂へ行って説教を聴いていました。
(写真3:礼拝堂内部)

また当時エルビス・プレスリーのゴスペルソングが好きで、よく口ずさんでました。プレスリーは当時人気のロック歌手でしたが、彼が敬虔なクリスチャンでゴスペルアルバムを少なくとも3枚出していることは日本ではあまり知られてなかったようです。おそらく“ Crying in the Chapel”が唯一日本で知られた彼のゴスペルソングでしょう。
(写真4:陣馬山へピクニック、後列中央が筆者)

わたしはキリスト教徒ではありませんが今でも宗教には興味を持っており、自身を「折衷的不可知論者」と呼んでいます。「不可知論」とは、神は存在するかもしれないが自分には分からないとする考え方です。「折衷的」と合わせて、ある一定の宗教に帰依することなく様々な宗教から有益だと思える教えを取り入れるが、神のような霊的存在には関与しないとする立場です。宗教をこのように捉えるようになったきっかけは、青学時代にイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの「宗教は必要か」(原題Why I am Not a Christian)を読んだ結果でした。

さて2年次になり金融論や簿記などの講義を取り始めて、専門科目に興味を持てなくなります。勉強が嫌になったわけではなく、興味ある講義にはしっかりと出席してました。例えば当時学長だった大木金次郎先生の講義を大講義室で聞いて、パワーのある先生だとの印象を受けたのを覚えています。また別のクラスでは、担当教授がE. H. カーの「歴史とは何か」(清水幾太郎訳、岩波新書)に基づいてした講義を聞いて、歴史観が180度変わりました。カーは20世紀を代表する歴史家で、その新版が2022年に近藤和彦訳で出版され話題になったばかりです。彼の数ある名言のうち「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです」があります。なお、これに似たことがまさに今この寄稿文を通して起こっているように感じています。

英語の授業にも普通に出席していました。雨宮剛先生のクラスでは、サマーセット・モームの難解な”Of Human Bondage”を読まされました。またアメリカ人教師担当の英会話クラスではちょっとしたハプニングが起こりました。学生の中にESSの部員で英語が上手そうに振舞っていた学生がいたのですが、ある時彼が教師に「アンケート」を英語として使ったのです。すかさずわたしがそれはフランス語だから通じない、と指摘したのです。ESSには入っていませんでしたが、わたしは仕事で使っていたので英会話には自信があったのでしょう。


(写真5:英会話クラス、ほぼ中央二人の外国人のうち左側の人の左下が筆者)


3・4年次には、桜井信之(経済学部長) ゼミに参加しました。当時そのゼミに入ることはステータスとされていたようですが、あまり力を入れて勉強はせず、卒業論文も平凡なものでした。ちなみに論文に関しては、学内で「戦争と平和」に関する懸賞論文コンテストがあった際に応募して、1位なしの2位に入賞したことがありました。今から思うに、青学時代すでに論文を書くことに興味があったのでしょう。

(写真6:桜井ゼミ、後列左から3人目が筆者)


読書も重要な学び
在学中に、沢山の本を読み続けました。その多くは専門外の人文科学系で、哲学や精神分析、欧米文学が主です。哲学ではプラトンをはじめジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュなどで、中でもカミュの「シユシユフォスの神話」には強い影響を受けました。実存主義でいう存在の「不条理」を、ギリシャ神話で神を欺いた結果大きくて丸い石を山頂に押し上げる罰を受けたシユシユフォスと絡めて論じた著書です。

(写真7:渋谷駅の青学方面行き都電)

一時は青学卒業後にも勉強し続けたいと考え、哲学専攻を目指して東京大学の学士編入試験を受けましたが、見事失敗。1年もない短期間の受験準備ではいい解答は書けませんでした。今から考えるに、哲学者にならなくて良かったと思っています 。卒業後どんな職業に従事できたのか不明だからです(イソップの「酸っぱいブドウ」に聞こえるかもしれませんが?!)。

(写真8:アドグルの旅行、右から2人目が筆者)

ジークムント・フロイトの本にも興味があり、「精神分析入門・上下続」や「生活心理の錯誤」など数冊を読み、人間の無意識や精神病理などについて学びました。余談ですが10数年後にアメリカで文化人類学を学びはじめた際、フロイトを読んでいてよかったと思いました。というのもこの学問は約100年前にアメリカで始まったのですが、その基礎理論の一部が精神分析学だったからです。

文学では「城」「変身」「審判」など孤独感や不安、不条理をテーマとして独自の世界を描いたチェコのフランツ・カフカの作品が好きでした。村上春樹が「海辺のカフカ」を2002年に出版してから、日本でフランツ・カフカの名がそれまで以上に知られるようになり、2006年にはチェコの「フランツ・カフカ賞」が彼に与えられました。

「独学のすすめ」を書いた社会学者の加藤秀俊は、内発的で自主的な学びを広い意味で「独学」と呼びました。このように見ると、わたしは専門科目に専念する代わりに、読書を通して独学していたのです。また青学在学中の忙しい学業・職業の二重生活にもかかわらずあれ程の読書をすることが出来たのが、今から考えると不思議に思われます。ここまで青学時代の 読書遍歴について細部にわたり書きましたが、読書は卒業後のわたしが教師・学者の道を辿るうえで基礎の一部になったと考えているからです。教養とは「過去から積み重ねた知恵」といわれるように、講義だけでなく読書も重要な要素だったのです。


(写真9:仕事仲間との旅行、左から3人目が筆者 )


米軍基地で働く
米軍基地内での仕事は、将校宿舎BOQ (Bachelor Officers’ Quarter)や日米間のアメリカ人旅行客を取り扱う、通称BOQと呼ばれた24時間営業のオフィースです。一般のホテルと似てますが、米軍施設ということで民間のホテルには無い事務手続きなどもありました。仕事は勿論全部が英語で当初は荷物係として、のちにフロントデスクの事務員として働きました。

しかし仕事をしはじめてしばらく経つと、限られた英語しか使ってないことに気がついたのです。特定の表現や語彙(May I help you, check in, luggageなど)を覚えて、客の言っている英語が聞き取れたら仕事は出来ました。以後、できる限り積極的に英語で客に話しかけ、仕事に関係のない話をしたり、聞いたりしました。また米軍放送FEN (Far East Network) の英語番組を聴き、米軍新聞Stars and Stripesを読んだりして娯楽や時事問題の英語にも親しみました。

(写真10:ロックバンド、左から2人目が筆者)

朝明けで、立川から渋谷の青山キャンパスに行くのは時に大変でした。 勤務中に1,2時間の仮眠は可能でしたが、熟睡はできません。しかも通勤ラッシュ中の東京方面行き中央線はいつも満員。新宿で山手線に乗り換え渋谷までの1時間ほどの通学で、吊り皮を握りながら立っていても睡魔に襲われて居眠りをしてしまうことも。すると膝が突然ガクンとなって、目が覚めたものです。他方、楽しいこともありました。例えば、BOQで働いていた他大学の学生たちとのドライブや、ロックバンドを組んでのセッションやイベントでの演奏を楽しんだものです。

アメリカンスクールの教師になる
青学を卒業後、2年半ほどBOQの仕事を続けいたある日、人生で重要なターニングポイントになる出来事が起こります。基地内の教育関係の仕事をしていたアメリカ人の友人からアメリカンスクールで教えないか、と勧められたのです。学校関連の役職者であった彼の推薦ということもあったのか、簡単な英語での日本文化に関するインタビューだけで採用されました。

正式にはJapanese Culture Teacher (日本文化教師)、略してCulture Teacherと呼ばれる教職で、日本語や伝統的な行事、習慣、童謡などを教える科目でした。新米教師として学ぶことが多く、沢山の読書を通じて勉強もしました。当時は、「日本人論」が盛んで、土居健郎の「甘えの構造」や中根千枝の「タテ社会の人間関係」など、日本文化の教養として重要と思われた本も読みました。そんな中に文化人類学に興味を持つようになる上で重要な要因となった一冊があります。人類学者ルース・ベネディクトの「菊と刀」です。この本は、日本でのフィールドワーク(現地調査) をすることなく日本人の行動・思考様式などを鮮明に分析した名著です。

アメリカ人同僚と結婚
職場は立川基地内の小学校で、教科内容は簡単でしたがそれをいかに教えるかは容易ではありませんでした。問題はアメリカ人生徒をいかに静かにさせて教えるかです。なにしろ子どもとはいえ日本人とは違うので、英語で生徒をコントロールし、手際よく授業を進められるようになるのに長い年月がかかりました。

授業は大変でしたが、教師仲間とは楽しいことが沢山ありました。アメリカ人同僚と様々なイベントやパーティーを通じて交流する機会がしばしばあったからです。また、東京近辺にあった米軍基地内の教師や基地内外の外国人を会員とする国際スキークラブも思い出されます。シーズン中には、長野近隣のスキー場へ2泊3日の旅行を数回したものです。


(写真11:中学校教職員。 中央の黒髪が筆者でその左が妻)


同僚とのリクリエーションでは、毎週一回基地内のボーリング場で小グループ間のリーグ戦をかねた行事があり、楽しみにしていたものです。そんな状況下でまた人生のターニングポイントになる出来事が起こります。デトロイト出身のフランス語教師と知り合い、2年間つき合った後に結婚したのです。式は1974年の5月に東京で、7月にデトロイトの教会で挙行しました。


(写真12:デトロイの教会での結婚式後)


ハワイへの移住
結婚後は横浜の米海軍基地内の同じ中学校で夫婦揃って3年間教えた後、1977年に、ハワイへ移住することになります。デトロイトに居た妻の母親が卒中を患い、ひとりで住めなくなったのです。ひとり娘の妻が世話するのが当然のことだったので、3人揃って環境が良く日系人も多いハワイを選びました。またその際アメリカで永住する予定だったので、アメリカ国籍(citizenship)を取得してからの渡米で、わたしの人生で起こった3つ目の重要な出来事でした。

ハワイは米本土と比べて人口構成が特殊な州で、50パーセントを超える多数派はいません。白人でさえ25パーセントで、異人種間結婚も一般的。州全体の約40パーセントの子どもが「ハパ」(hapa)だと言われています。「ハパ」とは日本語の「ハーフ」に近い言葉ですが、それぞれのハパの先祖を見ると、子どもによっては数種類の民族的ルーツを持っているのが特徴です。わたしたちも2人のハパ息子を育てました。


(写真13:1992年の家族ポートレート)

(写真14:1993年息子たちと)


さてハワイ移住後に、文化人類学を学ぶためハワイ大学院に入ります。在学中も、アルバイトをしたり講師として教えながらの学業でした。当然ながら大学院では全てが英語でしたが、ほとんど問題はありませんでした。勿論これは青学時代の基地における職業経験に加え、アメリカンスクールでの教師経験のおかげです。

文化人類学者となる
「文化人類学」は「文化」を基礎概念として現代社会を人類規模で探索する学問です。ここでいう「文化」とは一般的な意味ではなく、ある社会の人たちが共有する物事の捉え方、考え方、習慣などを指す人類学の専門用語です。世界には様々な習慣や考え方、つまり文化を持った多様な人々が住んでいます。数々の文化を比較して、人間とは何かを探求するのがこの学問なのです。一昔前まで人類学者は異文化を研究するために外国でフィードワークをしていましたが、近年では自国の文化をも研究するようになっています。

(写真15:1989年博士号授与式)


(写真16:1989年授与式で瞑想する筆者)


ちなみに「ヘアの文化人類学 頭髪の起源からグレイヘアまで」と題して、2023年1月に新刊書を文芸社から出版します。髪の毛を通過儀礼、ジェンダー、女性の魅力などと関連付けて考察した一般向けの本です。この著書では、日本はもちろん様々な異文化で見られる頭髪についての考え方や習慣、象徴的な意味などを広い視点から深掘しました。

おわりに
国際ビジネスマンになりたいと入学し、同時に米軍基地で働きながら4年間過ごした青学での経験はその後のわたしに多大なる影響を与えてくれました。結果的にはわたしは文化人類学者になったのですが、両者にはひとつの共通点があることに気がつきました。それは、異文化性です。仕事の内容はそれぞれ違うものの、広く外国・異文化をその対象としています。多文化やハイブリッドな物事に興味があるわたしには、ぴったりの職業だと信じています。


プロフィール
新田文輝(ニッタフミテル)
1943年大阪生まれで東京育ち。青学を卒業後、米軍基地にあったアメリカンスクールで日本文化を教える。1977年にハワイへ移住して在住17年。その間にハワイ大学大学院で文化人類学を学び、1989年に博士号(Ph.D.)を取得。ハワイ大学などで教えた後の1994年に高梁市の吉備国際大学社会学部教授に就任、文化人類学と関連科目を教える。また倉敷芸術科学大学及び川崎医療福祉大学で非常勤講師も務め、2015年に名誉教授として退職。

現在は、岡山市と倉敷市における駅周辺での定期的なゴミ拾い、総社市の外国人防災リーダー、高齢者施設などでのコンサートなどのボランティア活動をしながら執筆を続ける。趣味はウクレレ/ギターの弾き語り、スキュバダイビング、スノーボード、海外も含めた旅行など。


[写真の出典:写真1, 6, 8は橋内武様の卒業アルバムより転写;2と3は青学の学生部からの提供;その他は筆者自身が提供]
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