我が青春の綴れ織り―学び・出会い・絆
橋内 武
0.はじめに
学び舎としての青山学院には、若者たちが感得し得る三本の柱がある。 1 )「地の塩、世の光」というスクール・モットー、2) リベラルな校風、そして、3)個性を尊重する友愛の精神、である。そのため、自己の自立と自律への志向が定まったことは幸運であった。今もなお、高等部から大学院まで緑ヶ岡で学んだ9年間の思い出が、走馬灯の如く次々と眼前に蘇る。
1.高等部時代
高等部(成田孝治部長)は1959年4月入学の10期生。1年の担任は、「サイケン」こと斎藤賢先生(化学)であったが、同じクラスには後に俳優になった竹脇無我氏がいた。「書道」は豊田文先生(元院長かつ元学長・豊田實博士の妹)が手を取って教えてくださった。2年生と3年生のHR担任は儘田信一先生(数学)で、愛称は「ママチン」であった。
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写真1 高等部北校舎北正面(1961年当時) | 写真2 中央がHR36担任の儘田信一先生で、その左が橋内 武 |
ミッション・スクールゆえに「礼拝」の時間(於:PS講堂)があった。特に、橋本ナホ先生の決まり文句「イン・スパイト・オブ」や藤村靖一先生の味わい深い人生論を思い出す。そして、大学の浅野順一教授(旧約神学)がHR36まで週一時間の授業にいらして、「旧約聖書」の預言者について物静かに語られた。また、宗教部には、時に大学から講師が来部し、講話をしてくださることがあった。中でも、太宰治の短編小説『トカトントン』を紹介しつつ語られた関田寛雄講師の洞察力溢れる人生譚(虚無対キリスト教による魂の教義)は、「いかに生きるべきか」を考え始める高校生たちの心に訴えるものがあった。(なお、大学教員の職位は当時のもの。以下同様。)
生徒会会長をした2年次には、60年安保闘争があり、銀座通りをカルチェラタン方式でデモ行進をした。体育祭は都立体育館・競技場で開催され、私は遅足ながらマラソンに出場した。文化祭には、同級生の発案で制作した「日本異談史」に日蓮役で出演。高等部時代に、山歩きを始め、級友と美ヶ原・蓼科・尾瀬などに登った。地理研究部(顧問:馬場錬一先生)の巡検にも参加し、京都・奈良や東北を旅した。修学旅行は九州一周であった。謂わば、神出鬼没の存在を楽しんだと言うべきか。なお、臨床心理学者の片野智治氏(跡見学園女子大学元教授)は同級生、NHKラジオ講座「実践ビジネス英語」講師の杉田敏氏は同期生。
2.大学(学部)時代
1962年4月、大学(大木金次郎学長)は文学部英米文学科に入学した。中学生の頃から、英語教員になることが将来の夢であったからである。F組の朋友に設楽淳二氏(元読売新聞記者)と宮脇弘幸氏(宮城学院女子大学元教授)がいる。そして、同年6月に青山学院大学構内で開催された日本英文学会全国大会に参加。日本英学史の大家・豊田實博士(初代学長)も当時はご健在であった。以来、私は湘南ボーイ(?)よろしく、波乗りならぬ、‘学会サーフィン’を続けてきた。日本英学史学会創立総会(1964年6月、於:青山学院大学)にも出席した。
顧みると、一般教育科目の中で印象深かった名講義は、野呂芳男教授の「キリスト教概論」(略して「キリガイ」)であり、実存論的神学に拠るものである。加えて、保坂榮一教授の「西洋史」は、一種の洋風講談であり、歴史上の人物についての語りが素晴らしかった。田坂誠喜教授の「文学」は『古事記』の講読であったが、その神話は旧約聖書の「創世記」にも似て、興味深かった。
また、2年次には、「沖縄・奄美に心の歌を」という呼びかけに応じて、「緑ヶ岡クワイア」(顧問:神学科・新見宏助教授、指揮:同期法学部生の高橋信雄氏)に加わった。堀田宣彌氏(青山学院現理事長)も団員であった。ハンセン病療養所(多磨全生園・沖縄愛楽園・奄美和光園)を訪ね、慰問公演をした。それが機縁となり、大学3年次の教育実習は、奄美大島の笠利町立笠利中学校で行うという得難い経験をした。奄美方言に関する知識を得るために、国立国語研究所地方言語研究室に通い、上村幸雄所員から助言を得た。奄美の民俗にも興味があったので、東京教育大学で行われた日本民俗学夏期講座に参加する一方で、堀一郎講師の「宗教民俗学」や祖父江孝男講師の「文化人類学」にはかぶりつきであった。そして、4年の夏にも、卒業論文の資料調査を目的に、三度奄美へ。卒論(英文)の研究テーマは、「奄美大島の中学生の英語発音における方言の干渉」であった。―こうして奄美が第二の故郷となった。
写真3 朝もやに霞む間島記念図書館正面
英米文学科の専門科目では、倉長眞教授の「英国文学史」と小山敏三郎教授の「米国文学史」、そして石井白村こと石井雄之助教授の「英詩概論」が心に残る。倉長先生は、ご自身が編集されたアンソロジーを使い、手製のパネル・シートを回覧させながら、丁寧に授業を進められた。小山先生は、いつも蝶ネクタイ姿で現われ、時代と作家について過不足なく米文学史の流れを教えてくださった。『英詩韻律法概説』を著わされた石井白村先生は、机の上をコツコツ叩きながら、英詩の詩形について解説された。そして、工藤好美教授は、文芸諸ジャンルの成立と展開を軸にして「文学概論」の講義をなさったが、それは品格と学生への慈愛が溢れるものであった。
文学以外では、まず、江本進専任講師の「スピーチ・クリニック」と、Mary Iizuka講師のSpeech Compositionは、実践的な人気科目であった。次に、勇康雄教授の「英語学」は、アメリカ構造主義を痛烈に批判し、当時誕生間もない変形文法を賞賛するものであった。桜庭一郎助教授の「英語史」からは、印欧語における英語の位置づけと古英語のゲルマン語的特徴を知ることができた。―講義のスタイルは、教授によって実にさまざまであった。
なお、英米文学科3?4年次には、特に英人John Owen Gauntlett教授の研究室に伺ってMichael Hallidayの言語理論などを学ぶ一方で、「ガンさんのアドグル」で小旅行と食事会を共にした。英語学の諸分野に関心を持ち、G教授以外に勇康雄教授(アメリカ言語学界の動向)、牧野勤助教授(英語音韻論―音素論から弁別的素性理論へ)、谷美奈子専任講師(形態分析)のゼミナールも履修した。教育学科の古銭良一郎助教授の「学校教育演習」(授業分析)にも出た。併せて、青山学院大学英文学会の学生委員を務め、高木道信先輩(後に千葉商大教授)や秋元実治先輩(東京大学大学院に進学、後に英米文学科教授・英語学)から大いに知的刺激を受けた。
写真4 ガントレット・ゼミナールで黒一点(G教授研究室)
サークル活動としては、入学後直ちに教育研究部(顧問:木下法也教授)に入り、岩崎三郎先輩(当時東京大学大学院生、後に教育学科教授)・関矢修先輩(卒業後、新潟県の高校教諭)・黒川芳夫先輩(卒業後、東京都の小学校教諭)などと教育社会学の読書会をした。その後、前記の「緑ヶ岡クワイア」で混声合唱を楽しむ一方で、国際関係研究部(略して「国研」、顧問:春木猛教授)に入部し、冷戦構造などについて議論が白熱した。田村勝彦先輩(後に蓮田・白岡地方日本ユネスコ協会会長)をはじめ、部員の多くは法学部生であった。同期には、アメリカで豆腐市場を開拓した、Mr Tofuこと雲田康夫氏もいる。女性部員には、同期の渡部道子さん(高等部卒、HR36の同級生)や2年後輩の須磨(旧姓:日置)政子さん(岡山操山高卒)がいた。二人とも新設間もないフランス文学科の学生であった。
写真5 国際関係研究部同期生7名、前列右端が橋内、後列左から2番目が雲田康夫氏、
右端が渡部道子さん(高等部HR36級友)
思うに、知的好奇心だけは、人一倍旺盛な大学生であった。当時は自我の形成とアイデンティティ確立の真只中にあった。突っ走りながら、焦りも迷いもあった。今でも我が若き魂が、青山学院のキャンパスを漂泊していることを感じる時もある。
3.大学院時代
1968年4月から1970年3月までが私の大学院時代である。当時、全国的に大学闘争または大学紛争の嵐が吹き荒れた。それゆえ、授業が中断されたり、バリケート封鎖がされたりした。教授によっては、一時的に喫茶店またはご自宅で授業をするほどであった。私は熊谷(旧姓:川村)園子さん(後に川村学園女子大学教授)と共に、小林英夫講師宅に通った。
大学院では、米人Patterson Benner教授が指導教授であった。幅広い学識の持ち主で、「言語と文化」に関する斬新な切り口が若い私を魅了した。この先生の影響で、1960年代後半の当時、揺籃期にあった社会言語学への興味を持ったのである。1968年9月には東京と京都で開かれた第8回人類学民族学国際会議に参加し、研究発表‘A Semantic Analysis of Shuzo Kuki’s Contribution to Ethnolinguistics’を行った。これが国際学会デビューとなった。その延長線上に英文の修士論文が作成された。
1969年にはG教授の薦めで、6月半ばからイリノイ大学で開催されたLSA Linguistic Instituteを受講し、Braj Kachru教授の社会言語学セミナーにも参加した。8月上旬にはこの言語学夏季講座が終わった。その後、広大なアメリカ大陸を東海岸からルイジアナ・テキサス・コロラドを経て、西海岸まで旅行した。最後にハワイ大学に寄って9月末に帰国。―10月から授業が正常化した。短期間に根を詰めて修士論文を仕上げた。
なお、生涯独身であった英人Kenneth Woodroofe教授(英文学)には、息子のように可愛がっていただき、日本各地への旅を弥次喜多道中の如く二人三脚を楽しんだ。Kenの決まり文句は「四つのL」(‘Live, Love, Learn and Laugh’)であったが、その言葉の下に友人や教え子が参集した。
1970年3月に大学院文学研究科英米文学専攻修士課程を修了。修了同期の英語学徒には、芦原貞雄氏(後に青山学院大学教授)と小野原信善氏(後に香川大学教授)がいた。
4.大学教員時代
4.1 ノートルダム清心女子大学時代
1970年4月から19年間、岡山県にあるカトリック系のノートルダム清心女子大学(渡邉和子学長)に勤務。文学部英語英文学科で主に英語学関連科目を担当した。この大学を地元では「清心」と呼ぶ。大学名の英文略称はNDSUである。備前岡山がJ. O. Gauntlett教授誕生の地であることは、着任後に知ったことである。父親Edwardは、旧制六高の英語教授として赴任。恒子夫人(旧姓山田、弟は山田耕筰)との間に生まれた長男がOwenであった。
なお、NDSU奉職中の1977年9月から78年9月までの1年間、英国政府奨学生(British Council Scholar)としてリーズ大学で長期研修をさせてもらった。研究課題は「移民に対する言語教育」であった。その間に、イングランド・スコットランド・ウェールズを含む連合王国(UK)とアイルランド共和国を旅行した。
そして、関西支部の支援で、大学英語教育学会(JACET)全国大会を初めて岡山に招致した。また、同学会中国四国支部を1984年6月に立ち上げて、1989年3月まで支部大会・研究会・講演会を企画・運営した。その間に来岡・来学した著名な言語学者には、Derek Bickerton, David Crystal, Charles Fillmore, Michael Halliday, Einar Haugen, Geoffrey Leechなどがいる。
4.2 桃山学院大学時代
その後1989年4月、大阪府の桃山学院大学(英国聖公会系、稲別正晴学長)が文学部(沖浦和光学部長)を新設するに当たり、遠山淳先輩(異文化コミュニケーション論)からの誘いを受けて、国際文化学科の教授として着任。70歳の定年まで25年間勤続。「応用言語学」「社会言語学」「民俗学」や「英語」などの科目を担当した。
また、1995年から96年にかけて研究休暇を得て、オーストラリアはシドニーのマッコーリ大学とメルボルンのモナシュ大学で過ごした。モナシュ大学の日本研究学科では、客員教授として大学院生に「日本語談話習得論」(Japanese Discourse Acquisition)を講じた。伊佐Pinkerton曄子先輩(通訳翻訳論)にもお世話になった。その大学院では、後に東京外国語大学大学院教授(異文化間心理学・教育学)となる宮城徹氏(1969年3月初等部卒)にも出会った。
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写真6 メルボルン:キャプテン・クックの家 | 写真7「キャプテン・クック」役と共に橋内 |
オーストラリアでは、大陸中央部にあるウルル(旧称:エアーズロック)に2度訪れた。山麓から聖なる岩山(周囲9.4km)を眺め、鎖を伝って標高868mの頂まで登った(但し、現在は登山禁止)。1995年と2016年のことである。そこから見た景観は、下が赤(赤土)、上が黒(黒い肌)、中央に黄色い◯(太陽)という「アボリジナルの国旗」を想起させる。
写真8 アボリジナルの国旗
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写真9 ウルル遠望―山麓の展望台より (2016年4月) | 写真10 ウルル頂上にて(〃) |
その他、学会活動として、日本「アジア英語」学会(JAFAE)の設立に際して、本名信行先輩(青山学院大学教授)からの誘いを受けて、理事に就任。社会言語科学会(JASS)では、後輩の平賀正子氏(立教大学教授)とは、学問上の関心を共有した。
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写真11 ミャンマー:バガンの仏塔 | 写真12 ミャンマー:バガンの仏塔を背にして |
(日本「アジア英語」学会研修旅行、2015年8月) |
写真13 ブータン王国の首都ティンプーにて
(ブータン英語教育研修旅行、2017年3月)
岡山で初めて出会った校友には、Woodroofe教授の教え子・木村淑子さん(文学部英米文学科卒)と文化人類学者の新田文輝氏(経済学部商科卒、吉備国際大学名誉教授)がいる。そして、泰緬鉄道建設犠牲者への贖罪と和解にその後半生を捧げた「クワイ河に虹をかけた男」(1941年専門部英文科卒の永瀬隆先輩)は、我等が母校・青山の至宝である。―私(橋内)の「校友ネットワーク」は、ここまで。
5.終わりに
以上、懐旧の想いで綴った我が人生の軌跡(My Story)、多くの意味でお世話になった恩師・校友との絆(Our Story)、そして時代と地域について、経験に立脚しつつも重層的に俯瞰した記録(History)の各焦点が、青山学院という学び舎に収斂していく。いや、大東京すべてが学び舎であろう。思うに、このことを、我々同窓生が語り継ぐ意義は大きい。最後に、頭に霜を戴く者として、その全てに感謝あるのみである。
橋内 武のプロフィール
1944年 東京生まれ
2022年現在 岡山市北区に在住
趣 味 旅行、山歩き、庭園・美術鑑賞
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写真14 南チロル―高山植物溢れる山腹にて | 写真15 南チロル―雲上散歩の頂から |
(ともに2019年8月) |
略歴
1959年4月 青山学院高等部入学
1962年3月 青山学院高等部卒業
1966年3月 青山学院大学文学部英米文学科卒業
1968年3月 立正大学文学部地理学科卒業
1970年3月 青山学院大学大学院文学研究科修士課程修了
1970年4月 ノートルダム清心女子大学文学部に就職
1989年3月 ノートルダム清心女子大学文学部退職
1989年4月 桃山学院大学文学部国際文化学科教授に就任
2008年4月 国際教養学部国際教養学科に所属変更
2014年3月 桃山学院大学国際教養学部教授を定年退職
2014年4月 「桃山学院大学名誉教授」の称号を受ける
専門分野
英語学、言語教育、社会言語学、特に談話分析、言語政策学、法と言語など
所属学会(現在)
法と言語学会理事、日本「アジア英語」学会名誉会員、日本言語政策学会名誉会員、社会言語科学会会員、日本語用論学会会員、岡山民俗学会会員
著書
単著
『パラグラフ・ライティング入門』、研究社出版,1995年
『ディスコース―談話の織りなす世界』、くろしお出版、1999年
写真16 著書2点と著者本人
共著(代表的なもの)
伊藤克敏・牧内勝・本名信行編著『ことばと人間―新しい言語学への試み』、三省堂、1986年
建部町編『建部町史(民俗編)』、建部町、1992年
小池生夫編『ECOLA(英語科教育実践講座)第16巻英語の指導と関連科学』、二チブン、1992年
田崎清忠責任編集『現代英語教授法総覧』、大修館書店、1995年
徐龍達・遠山淳・橋内武共編著『多文化共生社会への展望』、日本評論社、2000年
大谷泰照編集代表『EUの言語教育政策―日本の外国語教育への示唆』、くろしお出版、 2010年
橋内武・堀田秀吾編著『法と言語―法言語学へのいざない』、くろしお出版、2012年
大谷泰照編集代表『国際的にみた外国語教員の養成』、東信堂、2015年
山川和彦編著『観光言語を考える』、くろしお出版、2020年
写真17 橋内 武(近影)
以上
なお、本稿に掲載した1~5までの写真は、1962年3月卒『青山学院高等部卒業アルバム』と1966年3月卒『青山学院大学卒業アルバム』から近接撮影し、データ化したものである。これらのアルバムは高等部HR36級友の北村(旧姓:小松)由枝さんが提供してくれたものであり、ここに記して感謝するものである。また、6~17までの写真の方は、すべて筆者橋内のデジタルカメラで撮影した画像をデータ化したものである。