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シリーズ29 ~わたしと青山学院~ 岸野 豊様(1996年経営学部卒業)
2021.09.23 更新
友人は学生時代の宝物
「♪つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日」。
青山学院の「第二の校歌」とも呼ばれるペギー葉山さんの「学生時代」。幼いころ、母がよく鼻歌を歌っていたので、私にはとても馴染みのある曲でした。この曲を聴くたびに、入学式の日に青山キャンパス校内でつたが絡まっていそうな建物を探したこと、そして、その後に同じキャンパスで学生時代をともに過ごした友人達との日々を思い出します。
私は団塊ジュニア(1971~74年)として生まれ、就職氷河期の先頭にあたる、所謂ロスジェネ(ロストジェネレーション)世代です。
同じ年代の方は共感していただけると思いますが、大学受験は超過酷で、特に首都圏の私立大学の偏差値は急上昇。さらに大学3年時には、バブル崩壊の余波が終わり、大手企業を中心に新卒採用が一気に絞られた最初の世代です。同級生のなかには、あえて1単位だけ残して留年し、翌年の採用にかける者や就職できずにそのまま卒業した者もいました。
時を戻して、18才の私。なんとしても東京で一人暮らしがしたかった、もとい、東京の大学で学びたかった私は、1年の浪人を経て、なんとかMARCHの2校に合格しました。1校は英文学部、もう1校は経営学部。今思い返せば恥ずかしい話ですが、青山学院の経営学部を選んだのは、経営学を学びたいからではなく、「学院」という名前の響きがどこかオシャレでかっこいいという単純な理由だった気がします。「東京で一人暮らし」が「厚木で2年間一人暮らし」へと変わったのは、そんな私への罰だったのでしょうか?
受験戦争からの解放感からか、入学後に厚木キャンパスで行われたオリエンテーションで、クールビューティーな先輩女子に誘われるがまま、ホイホイとテニスサークルへ入部。練習や合宿ではいつも厳しい先輩もキャンパス内では親身になって勉強や私生活の相談にのってくれました。
テニスサークルの練習後に友人達と(左端が筆者)
私にとってサークル活動は、青学のイメージ通りの良家の子弟子女や帰国子女、そして私のような地方出身者組など育ってきた環境や異なる価値観の異文化交流で、岡山から上京した井の中の蛙に大海があることを教えてくれた、とても貴重な経験だったと思っています。
(テニスサークルの秋合宿(2段目が筆者))
そして、学生時代という限られた時間の中で、生涯の友となる友人たちに出会えた場所でもありました。
合宿で長時間正座して、先輩の説教を一緒に受けた友。
試験前に徹夜で飲みながら人生を語り合った友。
ネイティブが使う流行りのスラングを教えてくれた帰国子女の友。
金欠の時に学食でビーフシチューランチを奢ってくれた友。
落ちこんだ日にありえない量のお酒を持ってきてくれた友。
桑田佳祐・青学祭ライブのチケットをゲットし誘ってくれた友。
(青山でサークル主催のダンスパーティー(手前右端が筆者))
そんな彼らも(もちろん私も)アラフィフとなり、風貌もずいぶん変わりましたが、グループのSNS上では、青学箱根駅伝優勝には正月から喜々としてスタンプを送りあったり、仕事や家庭の都合をつけてリモート飲み会を開催したりと中身は当時のまま、あの頃と何も変わっていません。良い意味で。多分一生涯…。
岸野 豊様プロフィール
1972年生まれ
岡山県岡山市出身
岡山大学教育学部附属中学校、岡山県立岡山朝日高等学校卒業
1996年青山学院大学経営学部卒業
大学卒業後、SI業界を経て2001年株式会社山陽新聞社に入社。
現在はビジネス開発部門でチーフシステムエンジニア。新聞社の次期メディアを日々模索中。