2021.08.05 更新
わたしと青山学院
昭和44年(1969)4月 ― 昭和48年(1973)3月 堀 裕文
私は昭和25年(1950)生まれ。倉敷青陵高校から大学受験を目指した昭和43年(1968)はまさに学園紛争真っ只中、担任の先生や父の東京の友人たちに受験校を調べて戴いていた矢先、安田講堂闘争などで東京大学は入試中止、さらに筑波移転問題で東京教育大学も入試中止、さらに上智大学も学園紛争でキャンパス内に学園外の外人部隊が突入し、こちらも入試が中止となった年でした。昭和43年は江戸から明治になって100年が経過し、いろいろと話題に事欠かない年でした。
そんな年に、私は青山学院大学に無事入学することが出来ました。4月1日が入学式で、母とともにキャンパスに参りました折り、構内の桜は満開でお出迎え下さり、入学式の讃美歌に母は大変感激いたしておりました。正門から花岡山にかけて多くのクラブ勧誘ブースが並んでいたこと、今も脳裏に焼き付いております。法学部に入学した私は、結局アドバイザーグループに入会し、その後4年間を楽しく有意義に過ごし、今もお付き合いは続いております。
最初に歓迎ピクニック、夏の旅行、アドグル・デーやクリスマスパーティー&コンサート、そして、別途にダンスパーティー講習会、お正月の先生宅でのオープンハウス、イベントは星の数ほど用意されていました。飲めない私も、飲み会にお誘いいただき、少しずつ社会人向けのトレーニングを積んでいきました。クラブ活動も一瞬経験いたしましたが、アドグルには敵いませんでした。
アドグルの先生は、法学部憲法の小林孝輔教授でした。終業後に数人に一杯どうかねと、誘って下さったり、ビアーガーデンなどもお連れ頂きました。アドグルで一番資金が必要だったのは、冬のアドグルスキーツアーだったでしょうか。
ご存じの通り当校は夏休み前が前期試験でしたので、休み中は心置きなく楽しめる休暇でした。先輩方が試験の前にノートを貸して下さり、自分のノートに補記・追記したりして、試験に望みました。何とか3年で単位もほぼ取得出来、申し分のない素敵な学生生活だったと思っております。
無事卒業後は、父の会社の仕入れ先 測機舎 (その後 ソキア → トプコンと名称が変わって参りました。統廃合がありましたので)へ就職し、昭和51年(1976)に父の会社 株式会社金剛測機へ入社いたしました。 工業計測器、精密測定機器、測量機器、気象観測機器、検査機器、材料試験機、測定工具、関連システムなどの販売と、レンタル、メンテナンスなどを生業といたしております。
私は営業部門で修業を積み、取締役、代表取締役を経て、現在は取締役会長として、自社や公職などで貢献?いたしております。
大学やアドグルとの関係はその後も続きます。卒業後に小林先生が岡大にご講演に来岡された際には、アドグルの君の先輩に会わせたい、とご紹介賜りました方が 安原健男様 (大紀産業株式会社 現:取締役会長)でした。しかも、大紀産業株式会社様は私の家内ともご縁があり、本当に驚きを禁じ得ませんでした。その後も何度か先生がお寄り下さったり、アドグルの先輩も岡山に仕事で赴任されてこられたりで、お付き合いは長く続いておりましたが、先生のご召天(2004)で、今は直接存じ上げる方だけのアドグルとなってしまいましたが、現在も多くの方との絆は繋がり続けております。
そして、あの悩み抜いた「キリスト教概論 1・2」ですが、講義にあたり最初に説明を受けましたように、いずれ世の中を理解する際に助けとなるであろう、まさにその通りで感謝いたしております。
今後とも末永く皆様と青山学院とともにございますよう祈っております。
堀 裕文様 プロフィール
昭和25年(1950)生まれ。
昭和44年(1969)3月 倉敷青陵高校 卒業。
昭和44年(1969)4月 青山学院大学 法学部 入学。
昭和48年(1973)3月 青山学院大学 法学部 卒業。
昭和48年(1973)3月 測機舎に入社。
昭和51年(1976) 株式会社金剛測機へ入社。
営業部門に配属され研鑽を積まれ、取締役、
代表取締役を歴任し、取締役会長に
就任され現在に至る。