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シリーズ25 ~わたしと青山学院~ 岡野 敏久様
2021.07.26 更新
「わたしと青山学院」
岡野敏久
(1983年 経営学部卒)
「サザンに元気と勇気をもらい、青学を志願!」
勉学に!サークル活動に!充実した学生生活。
私が青学に入学したのは、もう40年以上前のこと!
還暦を過ぎて、「歳をとったなあと!」と、しみじみ感じるこの頃です。
私は、岡山市南部の兼業農家の長男で、就職では岡山に帰るんだから、大学の4年間だけは県外へ出ようと決めていました。
しかし、これといって目指す大学や学部も定まらず、関西か東京かも決めきれず迷っていました。青学を目指したのは一浪して、受験勉強をしていたある夏の夜、(1978年・夏)ふとテレビをつけると、短パンにタンクトップ姿の「サザンオールスターズ」の「勝手にシンドバット」が大ヒット中。聞けば青山学院大の学生バンドらしい。
当時、「蛍雪時代」くらいしか、大学受験情報の無かった時代「こんな自由奔放で活発な学生がいる大学があるんだ。是非、青学を目指そう。」と決意。迷っていた割には、実にミーハーで安易な志望大学の決断でした。志望校が決まるとそれからは猛勉強。
しかし、人生は甘くありませんでした。この年は入試の大改革の年、
国公立の共通一次試験の初年と重なり、私立大上位校の志願者数はどこも急増、有名私大の偏差値も軒並み急上昇、青学も偏差値が全国的にみても、最も上昇した大学のひとつで、私自身もかなりの逆風を感じながらも、得意だった英語と世界史に集中し、何とか合格できました。
(サクラの咲く春の青山キャンパス)
入学式は驚きの連続で、まず青学記念館の大きさと、学生数の多さで目が点に。そして、聖歌隊や合唱部、応援団、ブラスバンドの合同の歓迎の「ハレルヤ」の大合唱の歌声が記念館の中を響き渡り、キリスト教プロテスタント系大学のアカデミックなカラーに初日からド肝をぬかしてしまいました。
さらに演壇に立った、大木金次郎院長のお言葉にも大仰天。「青山学院は、大学という名のレジャーランドではない、勉学の場である」と新入生に一括。今と違い推薦入試枠などはほんのわずかで、ほとんどの受験生は詰込み教育を強いられ受験戦争と揶揄された私たちの世代は、学生運動も終わり「三無主義」(無気力・無感動・無関心)世代と言われる一方で、偏差値教育一辺倒の時代、志望大合格で気が抜けるのは皆同じでした。その学生生活を知って、入学式で早速、新入生に警鐘を鳴らした大木院長の優しくもあり厳しいお言葉でした。
(新緑の青山キャンパス)
下宿先は港区南麻布。と言えばカッコいいのですが、大きなお屋敷の2階に、男子学生の6畳間が7部屋、当然女人禁制、風呂は無く銭湯へ、トイレ、炊事場は共同で電話もなし。青学、慶応、明治学院、北里大、慈恵医大など、近辺の学生の寄り合い下宿で、土曜や日曜の夕方になると、皆が集まって、ひとり一品ずつのおかずと酒を持ち寄り楽しい宴会に。私は実家から国鉄便で送ってくるお米を炊飯器で炊くのがいつもの役割でした。
南麻布の下宿先での週末の夕食(メガネが筆者 青学、慶応、明治学院の学生等と)
通学に使っていた原付バイクと下宿の仲間たち(1980年夏)
南麻布の下宿前で。後は東京タワー。(1980年夏。)
南麻布エリアは、都心の交通不毛地帯とも言われ、大使館やお寺や大邸宅は多いものの、地下鉄もバスも超不便な場所で、私の通学は通常は、原付バイクを利用。有栖川宮公園の横や、西麻布の首都高速の下の大通りを横切り通学。いつも青山通りの正門前の歩道にバイクを置いて、教室にむかいました。
経営学部のクラス写真(4年生時 卒業アルバムから)
肝心な学生生活はというと、大学に行くのが結構楽しく1年生から授業だけは結構まじめに出て、要領よく単位だけは取得。バイトなども効率的にしながら、何となく東京での、ひとり生活を自由に過ごしました。どうしても取得したかった自動車運転免許は住民票を東京に移して、夏休みには取得できました。
ちょうど1年生の夏休み、テレビやFMラジオで大ヒットしていたのが、サザンの名曲「いとしのエリー」でした。まるで青学の入学を祝してくれるようなタイミングでもあり、デビュー曲の「勝手にシンドバット」とは全く違う素晴らしいメロディーと歌詞のバラード曲で、こんな恋愛がしたいなと思いながら、LPレコードからカセットテープにダビングしては、ラジカセで何度も何度もこの名曲を聞いていました。そのころ買ったサザン初のLPレコードの「10ナンバーズ・からっと」は、今も私の宝物として大切に保存しています。
(学生時代から保存している宝物)
2年生の半ばからは、1年上の経営学部の先輩が作った公認のテニスサークルの「シルバーウイングス」に、クラスの数人で加入。40人位のサークルでしたが、当時はテニスブーム全盛期。
皆で手分けして、駒沢、横浜三ツ沢、多摩川、芝公園、江戸川篠崎公園、世田谷スクーンメーカー寮などなど、水曜日の午後と、土・日曜日にコートをとるのが、ひと苦労でした。
芝公園テニスコートでの練習風景(東京タワーの下で)
大学3年 河口湖畔での夏合宿(前列中央ラケット持つ男性の、向って左となりが筆者)
4大のほか短大、理工学部、高等部出身者などの学生も多くいて、授業の合間や放課後には、学食や学生会館1階でたむろして談笑したり、授業が終わると六本木のディスコに繰り出すなど結構、青学という地の利を生かした自由活発な学生時代を謳歌しました。
そして、何といっても楽しかったのが、青祭の時でした。3年になる春に引っ越した中目黒の私のアパート前の駐車場が、看板類や食材仕込みの準備場になり、夜遅くまで皆で準備して、青祭当日は、焼きそばやフランクフルトなどの模擬店を出して、利益はすべて最終日の夜、渋谷でバカ騒ぎして飲んで朝帰りでした。青祭の最終日の応援団やチアリーダーに先導された恒例の青山通りから宮下公園までの「提灯行列」もほんとに懐かしい思い出です。
青山祭での一コマ 1981年秋(前列中央から左に2人目、パーカーのフードが出て、髪の長いのが筆者)
青山祭での様子 1982年秋(前列の青い帽子が筆者)
青山祭の提灯行列 1982年秋(中央の男性の左側が筆者)
4年生になる直前の春休み(1982年3月)には、下宿時代を共に過ごし、仲が良かった同学年の、慶応大商学部の茅切君(現在、大阪でセミナー講師派遣会社の社長)と2人で、憧れのアメリカ西海岸に行こうと計画し実行しました。自分たちの得意だった英語の語学力を現地でどれだけ通用するのかを試す意味もあり、学生のツアー旅行や、短期留学でなく、現地ではすべて自由行動のかなり大胆な学生旅でした。
時は、赤坂のホテルニュージャパン大火災と、JAL機の羽田沖逆噴射墜落事故の直後で、家族からの心配もありましたが、行きと帰りの飛行機便のチケットだけは日本で手配して、「地球の歩き方」や「雑誌ポパイ」を熟読して行きたい店や観光地や、経路は事前に入念にチェック。現地での移動交通手段や宿泊手配はすべて自分たちの英語力をいかしてアポイントをとるものでした。約半月の旅で、成田からサンフランシスコに飛び、そしてロサンゼルス、ラスベガス、グランドキャニオンへ、最後にはハワイ州のホノルルにも立ち寄るものでした。当時の為替は忘れましたが、現地での支払いは米ドルの現金か、トラベラーズチェックのみの時代、かなり大胆な計画でしたが、2人とも初の海外旅行で緊張と不安の中、若さと度胸で何とか乗り越え無事にほぼ予定どおりの工程は行くことができました。
しかし英会話については、自分たちの言いたいことは何とか伝えられるものの、ネイティブのアメリカ人の喋っている言葉や、電話の声は早すぎて半分程度しか分からず、最後は度胸のボディーランゲージや筆談で何とか会話も成立。「受験英語と生きた英会話は違うな」と言うのが2人の率直な感想で、非常に思い出深いアメリカ旅となりました。
初の海外旅行。初日、サンフランシスコ ゴールデンゲートブリッジ公園にて(1982年3月)
サンフランシスコのブルックスブラザーズにて(行きたかったアメリカントラッドの店)
雄大なグランドキャニオンにて
LAアナハイムのディズニーランドシンデレラ城前にて
4年生になった時、厚木キャンパスが開学(1982年)したため、青山
キャンパスに新入生が入ってこず、何となく学生数も少なくなった感じで、学食なども活気がなくなったことを覚えています。そんな充実した学生生活でしたが、卒業論文だけは提出して卒業しようと思い、3年・4年生では「演習」という「ゼミ」を履修しました。私のゼミは経営学部と経済学部の両学部生が入れる「税務会計論」のゼミでした。指導教官は退官間近の栗山益太郎教授で、会計学の基礎は分かっているものという大前提での、レベルの高い授業でしたから、簿記論や財務諸表論の取得がやっとだった私にとっては、週2時間のゼミが非常にきつい時間となりました。(苦笑)
3年生時、ゼミ合宿での様子 先輩の4年生と。筆者は右端のブレザー姿。(3日間ほぼ缶詰で税務会計を学ぶ合宿でした)
さらに、経営学部だけは3年生になっても「外書講読」という専門分野に特化した長文英語の読解の必修授業があって、夏休みの宿題が、200ページ以上もある「マーケティング」に関する英語の専門論文を和訳するというものでした。いつまでたってもページが進まず、大変苦労したものの、最後までやり遂げたことは、今となってはいい思い出です。10人いたゼミの同級生は、皆優秀で半数はゼミの授業のほかに、神田の簿記会計専門学校に自主的に通ったり、税理士試験を受験したり、
オイルショック後の長い経済不況の厳しい就職戦線の時代にあっても、
大手メーカーや、商社、デパート、不動産、銀行や国税専門官などに就職しました。
卒業を前にした秋ころ ゼミの仲間と青山キャンパスで
学生時代もあと少しとなった4年生(1982年)の晩秋、巷でヒットして
いたのが偶然にも、あの志望校と目標を決めてくれた、サザンの曲、
「YaYaあの時代を忘れない(「学生時代」に続く第三の校歌?)」でした。ウォークマンでこの曲を聴きながら、桑田圭祐さんと同じ心境に浸り、黄金色に色づいた青山キャンパスの銀杏並木を、ベンチに座ってしみじみと眺めていたのも青学の思い出の1コマです。
卒業式 ゼミの友人と、前列左から2人目が筆者
(卒業写真アルバム用の全体写真 筆者は最前列中央から右側のベージュのジャンパーでVサイン)
私は運良く、故郷岡山に開局する新局のテレビ局への就職が決まり、東京をあとにしました。そしてもう、あれから38年。去年の春に、ゼミの集まりがあったのですが、コロナや父の体調不良で参加できず、またの再会を大変楽しみにしています。
今は、志望校を母校に変えてくれた、あの桑田さんとサザンの活躍や、お正月の箱根駅伝をテレビを見ては大応援、今も元気をもらっています。還暦を過ぎて、ちょうど62歳になりますが、もう少しだけ地元テレビ局勤務をして、これからは健康に留意して。実家の農業に携わりつつ、地域の役に立つような生き方をしていきたと思います。
■プロフィール
岡野敏久様 テレビせとうち(株) 事業コンテンツ局参与
1959年7月 現:岡山市南区藤田生まれ
1978年3月 岡山県立玉野高校 普通科卒
1983年3月 青山学院大学 経営学部 経営学科卒
1883年4月 TSCテレビせとうち株式会社 設立準備室入社
1984年10月TSCテレビせとうち株式会社 会社設立
1985年10月 同局 開局(放送開始)
以降、業務部デスク、営業部主任、報道部デスク・部長、
編成部部長、事業部長、事業局長などを経て
現在、事業コンテンツ局参与
趣味は、ドライブ、旅行、ニュース報道番組の視聴、音楽鑑賞など。