入学した年は、ちょうど東京オリンピックが開催された1964年、その後4年間の学生時代、いろいろなことが浮かんできます。アルバイトをすることなく親からの仕送りにて生活できていたことに感謝し、留年することなく4年で卒業せねばならないという一心で、試験を乗り越えていました。
幸いにも4年で卒業することが出来、地元の企業、ヤマハ発動機(株)に就職することができ、60歳の定年まで勤務続けることができました。就職した当時は、オートバイの製造会社でしたが、その後、船外機、ボート、和船、雪上車、発電機、ゴルフカー、ロボット等多種多様な製品も加わった製造会社となり、また、ジュビロ磐田としてサッカー、ラグビーにも力を注ぎ従業員の士気高揚のみならず地域にも貢献しております。
当時、事務系、技術系新入社員は各20名、新入社員研修として一カ月工場実習、その後事務系は全員国内の支店や営業所に営業研修に。小生は九州支店北九州営業所に配属され学生時代に描いていたサラリーマンとは程遠い営業時代でしたが、営業所社員一同和気藹々とした楽しい生活でした。1年が過ぎ5月に本社海外部門への辞令、青学大出身ということで海外部門への配属、大学での商業英語、当時は四苦八苦して単位を取りましたが、仕事で毎日携わり、商業英語の本を読み返してみると、こんな容易なことが・・・と思えた次第でした。海外業務部から海外営業部に移動しオートバイ営業として東南アジア、欧州、大洋州、北米担当を経験し1982年カナダ現地法人に副社長として赴任しました。赤字会社を1年で黒字化できたことは石川信男先生ゼミの経営管理の教えかも知れません。カナダ駐在中にゴルフ、スキーを習得し、家族一同カナダ・トロントでの生活を堪能しました。また、多くの青学卒の先輩、後輩の方々にも出会うことができ、校友会トロント支部を知人と共に設立しました。
1989年、サラリーマンの宿命として本社への移動の辞令、約7年間のカナダでの駐在を終え帰国。本社では、ゴルフカー、発電機を扱う事業部の企画管理部長として電磁誘導乗用ゴルフカーを企画提案し現在日本のゴルフ場で皆さんが使用されているリモコンで誘導できるゴルフカーを世界で最初に開発、販売に至っています。
その後、2000年にインドの現地合弁会社に赴任、合弁会社から100%の子会社化への折衝、半年後に子会社としCOOとして4,000人の従業員の意識改革に奮闘しました。 カースト制度が現存し社内にて管理職でもカーストの地位が高い平社員に対しては遠慮してしまう現実、ワークシェアリングの徹底(地位の低い仕事はしない)、毎日社内食堂のランチはルーだけの野菜カレー、毎日数時間の計画停電(盗電が多いため電力不足)、水道水は飲料には不可、日本では想像できないことばかりの2年間の駐在生活でした。
60歳にてヤマハ発動機を定年退職し、その後、東京での上場会社にて監査役を7年、単身赴任の傍ら、お世話になった青山学院への恩返しの思いにて校友会静岡県西部支部長に就任し、15年を過ぎてしまいました。カナダでの校友との出会い、支部長会、支部長会幹事会、6年間の常任委員、支部、多くの校友の方々との出会い、小生にとっての貴重な財産です。
所属:石川信男ゼミ(経営管理)
カナダ・ナイアガラにて
親が来加した折にナイアガラ観光での家族写真(1984年8月)
カナダ・トロントにて
会社の駐在員家族と公園にてバーベキュー(1985年夏):一番左が筆者
インド・ニューデリーにて
監査法人会社との会議中(2000年):一番右が筆者)