経済学部卒業生がこの3月末で5万名を超えました。
青山学院大学経済学部は、昭和24年(1949)戦後の学制改革で従来の専門学校から、新制大学に移行し商学部商学科として発足しました。その翌年には商学部に第二部商学科が設置されました。
その後、昭和28年から経済学部に改められ、経済学部経済学科、商学科、第二部経済学科、第二部商学科に編成されました。この商学科が昭和41年(1966)の経営学部の前身となりました。
発足年は、前年入学した2年生2クラス78名、1年生6クラス243名、私が入学した昭和25年(1950)は6クラス289名、4年生不在の年でした。学生会改革が発足したばかりで、3年生は、旧制中学5年から入学した方や戦時中軍隊に進んだ方(陸軍幼年学校等)、青山学院専門部時代にあった工学部が関東学院への転籍を希望しないで青山学院へ残った混成学年でした。
昭和25年からは新制高校3年生が卒業して大学へ入学した最初の年であり、現在の原形となっています。
第1期卒業生は昭和27年(1952)で、私が卒業した昭和29年(1954)は3期生となります。また、昭和25年に設置された商学部第二部商学科は昭和29年には経済学部第二部商学科として2クラス76名の卒業生を送り出しています。
当時を振り返ってみると、女子学生は2期生に1名、3期生は3名と文学部と比較して少数にとどまっていました。
この29年卒業生迄は、戦時中軍事教練を受け軍需工場への動員や地方への疎開生活を強いられ、授業を満足に得られない時代を経験しています。
大学の校舎は正門を入り左右の1号館・2号館と2号館の裏に階段式の大教室があって授業が行われ、4号館下のステージのあった所は長椅子が置かれチャペルタイムの礼拝場でもありました。正門の直ぐ右(現在のジョン・ウエスレイ先生の像のある総研ビル)に守衛所があり、その裏にパン屋さんや小さな店が数軒あり授業の帰りに立ち寄りしたものです。当時は未だ朝鮮半島での戦乱があった後で食糧難が続いており、米の配給制度が敷かれて弁当を持参していたので学食で米の食事をとった思い出は記憶に残っていません。また、テレビなどない時代で、昼休みは2号館と本部棟の間に小さなグラウンドがあり、軟式ボールのベースボールゲームを学年問わずチームを組んで仲良く遊ぶことが唯一の楽しみでした。
当時の就職先は紡績会社・炭鉱・セメント会社が人気が高く、次いでNHKや新聞社、商社、金融、百貨店、通運、鉄道、重電気等が人気を集めました。
地方では中学生の集団就職が話題なる時代で懐かしく思い出されます。
学院の周辺を見渡すと、渋谷駅を起点として都心を結ぶ都電の停留所があり、4階建て都営アパートのベランダに洗濯物が干してある風景も思い出します。
現在のように物余りの時代とは想像もつかない昔物語です。
このような時代を経て、本年5万名を超える卒業生を送り出している経済学部に感動と喜びを覚える心境です。
所属:土田三千雄ゼミ(会計学)、卓球部(主将)、大木金次郎アドグル
学生時代の筆者
商学科E組の同級生(1954年卒業アルバムより)
当時のカレッジライフ(1954年卒業アルバムより)
当時の学内風景(1954年卒業アルバムより)