1964年(昭和39年)経済学部・経済学科卒の栗原洋と申します。
私は今年で80歳(傘寿)を迎え、若い時の目標寿命年齢になりました。感謝、感謝です。
思い起こすと、東京・駒場東邦高の1回生卒として、青山学院大に入学しました。
経済学科のGクラスでしたので、E.G. 会としていまでもたまには仲間と情報交換をしています。青学大を志望したのは、当時は”英語の青山”と言われ、戦後15年しか経っていないのに米国留学を夢に目指していた関係で青学大を志望しました。入学早々、E.S.S. に入り、先輩の影響もあって、E.G.会の盟友、黒澤光一君共々、英会話の訓練に励みました。一方、経済学部では、井藤半弥先生のゼミに所属、アダムスミスの国富論を学びました。アドグルは田坂誠喜先生で、”足るを知る”生き様を教えて頂きました。
青学大の生活は、E.S.S.の活動と言っても過言でなく、プロセクに所属、毎日英会話の場が与えられ、時にはU.S.O.(United Service Organization)のボラティアー・ガイドとして米軍人の休暇旅行で、日本の各地を案内したりしていました。生きた教育の場でした。そんなわけで、E.G.会のメンバーにクラスでは助けられ、卒業出来たと感謝に絶えません。
卒業後は、米国大使館の一等秘書官のドライバー&ハウスボーイとして、約3か月間大使館の往復と、昼間は奥様の買い物や子供さんの相手をしながら、米国生活に馴染む訓練をしていました。米国の大学は、黒澤君共々、同じトランシルバニア大を選びました。戦争に負けた偉大な米国を知るのが大きな目的で、あえて大きな有名校を避け、米国の神髄を学ぶため、小さなケンタッキー・レキシントンにある古い由緒ある大学に入学しました。
2年の留学を終え帰国後は縁あって、丹頂株式会社(現株式会社マンダム)に入社、マーケティング学を生かしたマンダム戦略に関わり、チャールス・ブロンソンを使って企業の再生と外タレ活用の先駆者となり、今日に至っております。そんな訳で、青学大とトランシルバニア大とは私にとって、人生行路の決定的影響力の源と言わざるを得ません。これも一期一会のご縁あっての事と我が人生を振り返っています。
元々、一生を一匹の魚に例えると、頭は学習の20年、胴体はそれを生かす見識の40年、しっぽは第3の人生を楽しむ20年と決めていました。
マンダムでは30歳で役員に就任、常務、専務、相談役を歴任、62歳で全ての会社人間から離れ、社会人として生き様を楽軸に移しました。お陰様で、家内と2人で世界中を旅して、約100か所の市、町を巡った思い出は何にも変えられません。特に米国の大学同窓会へは米国横断を兼ねて2回参加出来たのも貴重な体験になりました。ヨーロッパへは船旅が主でイスタンブールからバルセロナまでエーゲ海、アドリア海、地中海、コートダジュール、バルト海、各島々、世界遺産巡りも素晴らしかったです。ユーロスター、在来線、陸地の旅も魅力的です。ハワイ、アラスカクルーズも魅力たっぷりで、ハワイは最後の楽園で年1回の楽しみでした。今はコロナ過でこんな優雅な時間は不可能、自分の計画を実現できた幸せを噛みしめています。最後は母校へ貢献する事は何か?を問い、青学校友会関西支部(前支部長)のお手伝いをさせて頂き、佳き友人との出会いも大きな財産です。
所属:井藤半弥先生ゼミ(地方財政論)・田坂誠喜アドグル
20年前のハワイでのホテルと5年前の神戸ポートピアホテルで筆者と奥様
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