在学中、海外に憧れました。当時まだ存在したソ連にベルリンの壁がある東ドイツ、戒厳令下のポーランドに出向きます。そして卒論テーマも「東西貿易」にしたのはいいけれど就活で某一部上場企業の社長面接ののち、人事担当者から私のゼミの教授に電話が入り「彼はアカですか?」と確認を求めたそうです。笑い話ではありましたが、良き時代だったと思います。
海外に行けるチャンスが大きいというので入社した某準大手ゼネコンは大学と渋谷駅の途中にありました。ところが、建設会社における事務系社員の立ち位置を入社初日から味わうことになります。土木の現場で泊まり込み勤務でしたが、所長から「お前は現場のキャッチャーになるんだ」と言われ、思わず「嫌です、ピッチャーになりたいです」と口に出かかりました。悔しくて建設会社で事務系社員が幅を効かせられる不動産部門を志願し、晴れて不動産事業本部に行きます。19歳の時に宅建を取得していたメリットがこんなところで生かされたのです。
しかし、その在籍期間も短く、会長、社長の随行秘書として国内外を飛び回る日々が始まります。その時、しばし忘れかけていた海外志向の芽もむくむくと蘇ってきます。2年半の激務の後、バンクーバーで社運を賭けた不動産開発事業を推進せよと辞令を貰います。
そこからの話は「ぶっ飛んでいる私の社会人人生」第二幕の始まりです。もがき苦しみながらも着実に果実を得ます。その頃、ふと思ったのは日本人より非日本人の方がビジネスしやすいのはなぜだろう、と感じた点でしょうか?移民国家カナダ故の論理性が売り手にも買い手にもビジネスディールにも全て浸透していることに気がついたのです。
社会人人生第三幕は親会社である準大手ゼネコンの倒産と銀行管理の時代を経て仕掛かり事業の個人的買収でした。メガバンクからは「適正価格での取引」を求められるもカナダのメインバンクからは必要資金の半分しか出せないと言われ資金調達に奔走します。うまく1カ月で全ての与件を満足させ、買収し独立します。
あれから17年。日本とカナダの両方で事業展開をする中で思うのは成田に着いたら日本モードにギアチェンジせよ、であります。ガラパゴスともいわれますが、日本独特の文化や商習慣は欧米のようなドライさはなく、突然ぶった切られることは少ないです。一方で日本の凋落をアルゼンチン化と揶揄する声もあります。陽はまた昇る、昇らないの議論など日本を取り巻く話題には事欠きません。海外に拠点を構えて30年、それでも私は現地を通じて日本を応援しています。陽は待っていても昇りません。強く羽ばたいてもらいたいと思っています。
所属 岩元 岬ゼミ(貿易論)
1997年にバンクーバーの地元紙のビジネス面トップに掲載された写真付き(筆者)記事
当時開発していたウォーターフロントの住宅