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バレーボール部OB・OG会 緑楯会

青山バレー部の思い出…2

2012.07.18 更新
「野老山先輩の宝物」


■1冊のファイルに詰まった学生時代
※野老山先輩が大切に保管されていたバレーボール部の数々の貴重な資料

野老山幹雄さん(S30年度卒)は躊躇しながら言いました。「これだよ」と1冊のファイルを差し出しました。
平成23年度総会(2012年6月3日)後の懇親会のテーブル、そこには茶褐色に変色した“お宝情報”がぎっしり詰め込んでありました。手書きのタイトルは「リーグ戦」、挟み込まれた茶褐色の紙には野老山先輩のバレーボールに打ち込んだ青春が刻まれていました。
真っ先に出て来るのは野老山さんの入学年、昭和26年(1951)春の関東大学バレーボール・リーグ戦2部のプログラム(タテ18、ヨコ11にプリントされたデータが1枚綴りで裏表3コマ)。

●関東大学バレーボールリーグ戦 昭和26(1951)年度春季のリーフレット


タイトルは
―昭和26年度春季― 關東大學バレーボールリーグ戰
日時 自5月5日(土)至6月3日(日)
   毎週土曜午後1時・日曜午前10時試合開始
   但し(雨天の場合は土・日共午後1時開始)
會場 浜松町コート(雨天都立西高国電西荻窪下車)
とある。
参加チームは一橋大、東京工業大、東京大、中央大、青山学院大、法政大の6校(1部校は早稲田大、慶応大、明治大、立教大、日本大、東京教育大=現筑波大=)。
青山學院大學のメンバー表では
部長 古坂臨成(城のミスプリ)、監督 吉田外治、主将 南川義宜、主務 小沢一智

(番號)氏名(位置)學年/出身校
(24)野老山幹雄(中)商學1/戸山高

▽登録選手
①南川義宣(中)商学3/神戸高、②高橋昇(前)英文4/八戸中、③福原朝茂(中)商学4/青学専1、藤田士朗(中)商学4/青学専、⑤酒井正一(後)商学4/北見中、⑥園田潤(中)英文3/中川中、⑦水野惇雄(中)商学3/千歳中、⑧二郷正成(前)商学3/江戸川高、⑨高野弘一(前)商学3/青学中、⑩鈴木秀明(後)商学3/磐城中、⑪小川富夫(中)藤沢中、⑫畠中敬(前)商学3/高輪高、⑬小沢一智(中)商学3/都十中、⑭淀川四男也(前)英文2/水戸高、⑮秋山貞雄(前)商学2/都留高、⑯阿佐勇(後)商学2/青学高、⑰上東野武夫(中)商学2/千葉高、⑱加藤道夫(後)商学2/青学高、⑲菊地武昭(後)商学2/青学高、⑳海波巌(後)商学2/青学高、(21)徳江三之助(中)商学1/青学高、(22)萩原亮(中)商学1/芝高、(23)青石敏男(前)商学1/九段高、(24)野老山幹雄(中)商学1/戸山高、(25)江部瑞夫(中)商学1/日本橋高、(26)猪越誠司(後)英文1/武蔵丘高、(27)大沼尚朗(後)英文1/港北高
以上27名、23番目の青石さんは横棒で消してありました。


■戸山高ではインターハイ準優勝
野老山さんは戸山高校からバレーボールをはじめ3年生の時、高校選手権(インターハイ)で準優勝という実績を引っ提げて本学へ入学。
当時は9人制、ポジションはネットに近い順から前衛3、中衛3、後衛3と1チーム9人でプレー。それぞれ左(レフト)、中(センター)、右(ライト)と位置し、主に前衛中が今で言うセッター、中衛中と後衛3人は守備専門。野老山さんは中でも右、とまりライトスパイカーでした。
大変興味深いのは、表紙の右下の「会員券 20.00 会期中一回限通用」。20.00は恐らく20円、昼食用のクーポン券でしょうか。更に注目したのは現役の前に先輩戰(OB戦)が行われていたことです。このプログラムでも5月6、13、20、27、6月3日の5日間、雨天中止で実施される予定になっています。浜松町コートは現在の旧芝恩賜公園内(JR浜松町駅下車1分)。


■東北学院定期戦と英字新聞TROJYAN
これも珍しい。野老山さん、2年生時の即席の一つです。
東北学院大学との定期戦について「復活第3回 東北學院大學−青山學院大學 總合定期戰」(昭和27年=1952=9月11日~15日)の総合プログラム(タテ18、ヨコ13、12頁の小冊子)。

主催 青山学院大学学友会 後援 スポーツ・ニッポンとあります。
スポーツ紙がバックアップしていたとは。
青学バレーボール部のメンバー表は監督 福原朝茂、部長 阿久津馨、主将 加藤道夫、マネジャー 杉浦茂。
チームの布陣は前衛=秋山貞雄、淀川四男也、加藤道夫、中衛=竹内溥、徳江三之助、野老山幹雄(商2)、後衛=高橋清、安佐勇、海波巌(いずれも左、中、右)、とあります。

実施10競技と開催場所は、野球(上井草球場)、陸上競技(神宮競技場)、ラグビー(明大グラウンド)、硬式庭球(浜田山コート)、籠球(バスケットボール、国民体育館)、バレーボール(青山学院コート)、サッカー(神宮競技場)、卓球(青山学院体育館)、水泳(青山学院プール)、柔道(国学院大道場)。

ファイルの最後に挟み込まれた、本学の月刊英字新聞「AOYAMA Trojan」(昭和59年廃刊、青山学院大学英字新聞として受け継がれている)は定期戦の模様を伝えています。

●「Aoyama Trojan」 昭和27(1952)年発行

・該当記事


見出しは「第3回東北−青山定期戦、青山勝利」記事は富川三郎と言う学生が取材して執筆、バレーボールのゲーム写真が名刺大で掲載。
それによりますと、9月11日、東北学院大120選手は仙台から上京、PS講堂で盛大に開会式が開かれた。
ミッション系の大学同士では最大の定期戦は12日から4日間行われ、青山学院が野球、バレーボール、水泳、テニス、バスケットボール、ラグビー、陸上競技で勝利したが、卓球、柔道、サッカーは負けた。
中でもバレーボールは力が伯仲、5セットまでもつれて、学生たちを沸かせた、とありました。
更に記事は、ラグビー、サッカー、陸上競技では20年以上も前から交流しており、彼らは今年の定期戦を第3回とは呼ばないのだ。
昭和15年(1940)、第2次世界大戦が勃発し、定期戦を始めスポーツ活動も中止となった。
戦後、(学校制度改革に伴い新制大学となった本学と東北学院は)昭和25年(1950)、交流を再開するにあたって、すべての競技を組み入れることになった、と書いています(要旨)。プログラムに敢えて「復活」としたのは、訳があったようですが、平成24年(2012)の定期戦は第63回、昭和50年の開催を第1回と数えています。
遅れること4年、昭和54年(1979)に女子バレーボールも定期戦を始めました。この他、男子は学習院、明治学院と3学定期戦を行っていましたが、自然消滅しています。
  

■激戦2部、大きくなったプログラム




リーグ戦のプログラムがB5版の大きさになります。
野老山さん3年生時、会場は田園コロシアム(現在はマンション「ドレッセ田園調布プレゼンス」)へと変わります。
昭和28年(1953)春は東京工業大(降格)、法政大(1部昇格)に代わって日本体育大、東京教育大が、秋は日体大(降格)に代わって東京学芸大がそれぞれ参戦しています。

▽本学の昭和28年春季リーグ登録メンバー
監督・吉田外治、①阿佐勇(後)経4/青学高、②淀川四男也(前)文4/水戸高、③秋山貞雄(前)経4/都留高、④海波巌(後)経4/青学高、⑤加藤道夫(後)経4/青学高、⑥菊地武昭(前)経4/青学高、⑦阿久津馨(中)経4/宇都宮中、⑧杉浦茂(後)経4/青山中、⑨水野哲雄(後)経4/逗子開成高、⑩野老山幹雄(中)経3/戸山高、⑪徳江三之助(中)経3/青学高、⑫竹内溥(中)経2/青学高、⑬高橋清(後)経2/川越高、⑭菅原勉(後)経2/青学高、⑮山下孝治(前)経1/湘南高、⑯最首正夫(前)経1/湘南高、⑰早川恒夫(前)経1/甲府一高、⑱宇山昭八郎(前)経1/瀬戸田高、⑲青木勇(後)文1/慈恵高、⑳山寺信光(中)経1/岡谷南高、(21)菊地彰(後)文1/明大中野高、(22)久慈勇(後)経1/八戸高、(23)久保島康之(後)文1/浜松北高、(24)中澤和夫(前)経1/韮崎高、(25)北野一郎(前)経1/藤岡高、(26)岡武孝己(後)経1/瀧川高

▽本学の昭和28年秋季リーグ登録メンバー
(23)久保島康之さんに代わって斎藤亮二(中)経1大泉高が入っている以外は同じ。学部と学年の項で春は経(済)だけでしたが、秋では経と商(学)に分けています。


■野老山さんキャプテンに就任
4年生時、野老山さんは主将を務めます。
昭和29年(1954)秋には会場は東京教育大学幡ヶ谷コートに。一橋大、学芸大(ともに降格)に代わって日体大が返り咲き、東京経済大が初顔で入ってきます。

▽本学の昭和29年秋季リーグ登録メンバー
監督 秋山貞雄、①野老山幹雄(前)経4/戸山高、②徳江三之助(中)商4/青学高、③竹内溥(中)商3/青学高、④菅原勉(後)商3/青学高、⑤高橋清(後)経3/川越高、⑥山下孝治(前)商2/湘南高、⑦早川恒夫(前)経2/甲府一高、⑧宇山昭八郎(前)商2/瀬戸田高、⑨最首正夫(中)商2/湘南高、⑩山寺信光(中)経2/岡谷南高、⑪久慈勇(後)商2/八戸高、⑫斎藤亮二(後)経2/大泉高、⑬青木勇(後)文2/慈恵高、⑭岡武孝己(後)経2/立川高、⑮上野厚(後)経2/三井毛高=ミスプリか=、⑯菊地彰(後)文2/明大中野高、⑰中澤和夫(前)商2/韮崎高、⑱堀美喜雄(前)文1/向陽高、⑲遠田敦(前)商1/成城学園高、⑳高野譲二(後)文1/川越高、(21)三富、(22)森敏男(後)経1/新宿高、(23)保坂一衛(前)文1/甲府一高、(24)高野経1/青山高
※プログラムの不備が目立ちます。森敏男さんまで2年生のはずですし、データの欠落もあります。
この4年間を振り返ると、2部参加校が目まぐるしく入れ替わる中で、2部に残り続けたことは大健闘と言えます。

<野老山さんが本学に入学した昭和26年(1951)とは>
1月3日、第1回NHK紅白歌合戦。4月19日、ボストンマラソンで田中茂樹さん(19)が日本人初V。9月4日、サンフランシスコ平和条約締結。物価を見ると封書10円、はがき5円、国鉄最低料金10円、新聞の月極め100円、森永ミルクキャラメル20円など。


■第1回インカレで本学女子4強
●東京大学女子バレーボールリーグ戦 昭和28(1953)年度春季 リーフレット
・表回り

・中面

野老山さんのお宝の中に女子リーグのプログラム(B5版)もありました。
タイトルは
昭和28年度春季
東京・大學女子
バレーボールリーグ戦
日 時 自6月20日(土)至6月28日(日)
    試合開始 土曜日1時 日曜日10時
会 場 田園コロシアム
    お茶の水女子大・東京学芸大(但し雨天)
とある。

1、2部同時掲載で
1部=共立女子大、日本女子体育短期大、お茶の水大、青山学院大、日本女子大、昭和女子大、東京学芸大
2部=東京女子体育短期大、早稲田大、横浜国立大、日本体育大、女子美術大、教育大

▽本学の昭和28年春季リーグメンバー
部長・古坂枝、主将・船津玲子、マネジャー・山本明子、①館谷光代(前)3/松戸高、②川添成子(前)2/青学高、③渡邊洋子(前)2/三田高、④菅久美子(前)2/立教女学院、⑤岡本カヨ(前)2/白鴎高、⑥平田明子(後)2/城北高、⑦平田明子(後)2/青学高、⑧山本明子(中)2/山本高、⑨船津玲子(後)2/忍岡高、⑩西田道子(後)2/浦和高、⑪高宮叶子(中)2/楯岡高、⑫池田豊子(前)2/鷺宮高、⑬山川京子(後)2/櫻蔭高、⑭加藤ヤス子(中)1/忍岡高、⑮清水美代子(前)1/八幡浜高

関東の女子でいち早く創部したのは竹早高女、お茶の水女子大、日本体操学校(日体大の前身)などで、本学女子は昭和25年(1950)です。
リーグ戦は昭和23年(1945)から高専が始めていましたが、学校制度改革に伴う新制大学の発足により、昭和25年(1950)新しく関東の女子大学リーグ戦がスタートしました。当時はまだ女子の進学率は低く、バレーボール部を持つ大学の多くはありませんでした。
第1回の参加校はお茶の水大、日本女子体育短期大、東京女子大、学習院大、青山学院大、共立薬科大、共立女子大の7校。
昭和28年(1953)から参加校も増え2部制となっていますが、お茶の水大、日本女子大、昭和女子大など古くからの女子大勢が強く、現在の女子の勢力図から見ると隔世の感があります。
女子のインカレは昭和29年(1954)に京都で46校が参加して開催され、日本体育大が優勝。青山学院大は準決勝でその日体大に2-0(21-10、21-10)で敗れています。

<ここでいう高専とは>
旧制専門学校のことで、第二次世界大戦までの日本における専門学校令に基づいて専門教育を行っていた高等教育機関。現在の専門学校とは系統をまったく別にする。旧制はむしろ現在の大学に近いもので多くは現在の大学の前身である。


■部報創刊、興味深い諸先輩の回顧
部報の創刊号(昭和26年9月刊)はお宝中のお宝です。その中に福原朝茂さんの「バレー部『回顧』」と言う一文を紹介します。

「(前略)私が入部したのはその翌年(昭和23年)で秋のリーグが始まる頃であった。当時は関東高専リーグの2部に加盟していたが、田尾主将の下に全員奮闘し、4勝1敗の好成績で2位となり、1位の明学と共に1部に昇格された。然し翌年、創設者にしてチームの大黒柱であった田尾先輩を始め、加藤(哲)小長井、原田の諸先輩を送り悪戦苦闘したが、吉田主将の超人的な活躍によりかろうじて一部に踏みとどまった。
続く24年度に主将になった小生の時、従来の高専リーグ廃止され、吾校は関東大学の第2部に加盟したのである。吉田先輩の卒業により攻撃皆無の状態に陥り、到底部の維持は不可能であると思った矢先、幸運の女神は救いの手を下した。即ちこの年に高橋、南川、松岡の諸君の入学をみ、新しくチームらしきものを編成したのである。(後略)」

このほかインタビュー、座談会、女子リーグ戦を振り返るなど盛りだくさんです。
B5版全22頁、すべて手書き、ガリ版刷りの冊子ですが、最初のOB・OG名簿でもあります。

▽OB名簿
昭和23年卒 田尾昭次、加藤哲也、舘正義、原田純、小長井宰、安食重義昭和24年卒 吉田外治、加藤精三、藤田士朗、長谷川勇 昭和25年卒 宇田川習二、村田和、奥野修二、嘉戸健治、鈴木直昭、福原朝茂

▽OG名簿
昭和25年卒 柴田雅子、酒井久栄、板倉瑛子、佐藤綾子、佐藤道子、綱徳子、大溝愛子、渥美恵美子

緑楯会会報は平成7年度(第1号)が1996年2月に発行されています。B5版、19頁、ワープロ入力と手書きミックス。
これは徳江三之助さん(S30年卒)から引き渡されたものです。
当時の会長、秋山貞雄さん(S29年卒)のあいさつ文を紹介します。
「(前略)この度、田尾先輩の発意により会および現役の動向をお知らせする会報が初めてはっこうされました。当会報に引き続き会員名簿の更新が5年ぶりに行われますが、春頃に名簿をお届けできると伺っております。これらの作業を大先輩の田尾昭次氏に全ておまかせいたし、住所不詳者の探しだしから編集・発行などご尽力下さり御礼の申し上げようもありません。また杉浦茂前会長にもお手伝いいただきありがとうございました。(後略)」

(昭和30年7月には青山学院大学バレーボール部部員名簿が発行されOB、OG、現役男女部員を網羅。その後,緑楯会名簿としては1996年6月に発行されています)


【部報、会報のメモリアルデータ】
「部報」創刊号 昭和26(1951)年発行
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「緑楯会会報」第1号 平成7(1995)年発行
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最初の6人制インカレ開会式、決勝トーナメント表も掲載(神戸・王子公園コートで)

昭和35年度インカレに出場した本学チーム

相手の攻撃をブロックする本学チーム(S35年度インカレ=9人制=から)


■関東高専と関東大学、二つのリーグ
◇大学の歴史を見てみましょう
昭和2年(1927)、東京帝大(現東大)と京都帝大(元京都大)にバレーボール部が出来たのが大学バレーボールの始まりと言われます。
その後、関東では浦和高校(現埼玉大)、明治学院、日本体操(現日体大)がチームづくり取りかかり、昭和5年(1930)に慶応大、翌年には早稲田大が、更に日本大、明治大と相次いで部を立ち上げます。
昭和7年(1932)に関東学生排球連盟が設立され、6月5日、芝恩賜公園コート(浜松町)でリーグ戦が始まります。参加校は東京帝大、慶応大、早稲田大、浦和高、横浜工高(現横浜国立大)、日本大の6校。
最初の栄冠は全勝の東京帝大に輝いています。
同年秋には日本体操、明治大、明治学院が加盟し、春最下位の日本大と2部を結成しています。
翌8年(1933)には東京文理大(後の東京教育大、現筑波大)が加わり、1,2部各5校の構成となりました。
因みにこの頃の加盟料は20円、参加料は15円。

1、2部入れ替え制度に端を発した浦和高の棄権問題から高専分離が持ち上がり、昭和11年(1936)、関東大学排球連盟として新たにスタートします。
早大全盛、14連覇の記録が残っていますが、昭和17年(1942)秋のリーグを最後に昭和18年から昭和20年まで(太平洋戦争のための)学徒出動命令、戦時学徒体育訓練実施要項により球技等が全面中止となり、バレーボールのリーグ戦も中断されました。
昭和20年8月、終戦。
リーグ戦は昭和21年の春から再開され、東京帝大、早稲田大、慶応大、明治大、東京文理大、立教大、日本大の7校で行われ、東京帝大が復活リーグの覇者となりました。
秋には東京産業大(現一橋大)、東京工大、中央大、法政大が加わって2部制も復活します。
本学男子の創部は昭和21年(1946)秋、翌年の春から関東高専リーグに仲間入りし、2部からスタートしました。

全日本大学バレーボール選手権大会(通称インカレ)は戦後3年目の昭和23年(1948年)7月24日、16校が参加して田園コロシアムで開かれ、早稲田大が優勝しています。このインカレがきっかけとなって、各ブロックに大学連盟が結成され、昭和25年の全日本大学バレーボール連盟の設立へとつながっていきました。(本学の動向については「青山の思い出…1」を参照)




必死にレシーブする本学チーム(最初の6人制インカレから)

試合開始前、コートエンドに整列する本学チーム(最初の6人制インカレから)

■学連の英断が五輪金メダルを呼ぶ
9人制から6人制へ。
バレーボールは1924年(大正14)オリンピック・パリ大会でアメリカのスポーツとして初めて世界へ紹介されていますが、昭和39年(1964)オリンピック東京大会で正式競技に採用され、世界的なスポーツへと発展して行くのです。
6人制は昭和28年(1953)、早稲田大学バレーボール部がアメリカ遠征して持ち帰りました。関東大学連盟では昭和33年(1958)秋季リーグから1部で9人制と6人制を同時開催、6人制リーグには明治、日体、日本、中央、法政、立教、早稲田、東京教育の8大学が参加しました。同34年、慶応が加わって9校となり、35年には東大、順天堂大、学習院大が手を挙げて2部制になりました。


この年、秋まで“9・6同時開催”、36年春は9人制だけで秋から6人制に全面切り替えとなりました。
これにはターニングポイントがありました。オリンピック東京大会まであと4年の昭和35年(1960)、バレーボール(6人制)が東京大会の正式競技に採用されたことです。いち早く応えたのが関東大学連盟。
昭和36年(1961)7月、全日本大学連盟は「昭和37年度全日本大学選手権大会より6人制を採用する」と発表しました。6人制の最初のインカレは神戸・王子公園コートで60校が参加して行われ、関大が法大を3−1で下し、優勝しました。女子は翌38年(1963)関東大学春季リーグから6人制を採用。同年のインカレは9・6同時開催とし、9、6とも日体大と武庫川女大の決勝戦となり、日体大がいずれも3−1で勝って優勝しましたが、この時の参加校は9人制26、6人制36校でした。


関東大学連盟の決断は、後に中大の昭和40年(1965)から天皇杯(全日本選手権)5連覇に象徴されるように日本男子バレーボールの推移を大学が握り、世界を席巻するまでになりました。
1972年オリンピック・ミュンヘン大会の金メダル監督、松平康隆氏は「学連は、紛れもなく日本男子バレーボールの銀メダル(1968年メキシコ五輪)、金メダル(1972年ミュンヘン五輪)の一翼を担ってくれた」と述懐しています。






昭和46年から48年の写真です。投稿してくれた桑村孝さん(S49年卒)の思い出は「練習は厳しく、毎日大変でしたが、いまにして思えば良い青春時代を過ごしました。社会に出て頑張れたのもバレーボールのお陰だと思っています。先輩後輩の関係も厳格な時代でしたが、今では年に数回飲んだり、仲良くゴルフをしたりして、昔話に花を咲かせています」

(同時代を過ごした皆様で連絡の取れない方がいらっしゃいます。
この投稿をご覧になりましたら、kuwason4903@ezweb.ne.jp是非ご連絡ください)
=平成28年9月20日投稿=


■ビーチバレーでも本学女子健闘
今やインドアバレーボールを凌ぐ人気のビーチバレー。1920年代、アメリカ西海岸でビーチレジャーとして発祥。日本でも鵠沼海岸などでは古くからレジャーとして楽しまれていたと言われています。
ここでも大学が貢献します。大学の全国大会は平成元年(1989)「ビーチバレー・ジャパン・カレッジ」と銘打って8月18日から3日間、神戸・須磨ビーチで全国9ブロックから選抜された男子30チーム(2人制)、女子16チーム(3人制)が参加して開催された。
初代チャンピオンは男子が法大の菅野・高尾ペア、女子は天理大の岡本・高奥・段野トリオ。本学女子は第1回から参加していますが、第2回大会(平成2年)で冨田・鈴木・小林トリオが3位決定戦で早大トリオに敗れて4位になったという記録が残っています。
大学選手権と名称を変えたのは第8回大会(平成8年)から。
最初の全日本的イベントは昭和62年(1987)神奈川・鵠沼海岸で開かれた「ビーチバレー・ジャパン」。この年の2月、ブラジル・イパネマで第1回世界選手権が開かれ、立川・松本ペア(ともに法大卒)が出場しました。1996年アトランタ五輪から正式種目となり、この大会で本学OGの中野照子(S63年卒)が出場、9位に入っています。


■バレーボールは日本から世界へ
◇バレーボールと日本
バレーボールはテニスからヒントを得て、レクリエーションとして1885年(明治18)、米国のウイリアム・G・モーガンによって考案されました。2チームに分かれて、ボールを打ち合い、ボールを落とした方が負けと言う簡単なルール。テニスのボレーからとってバレー・ボール(volly ball)、1952年にバレーボール(vollyboll)になったと言われています。日本に紹介されたのは1913年(大正2)YMCAの主事、F・H・ブラウンによってもたらされました。ルールは確定しておらず、日本で独自に作られ、チームの人数も16人から12人になり9人と変わって現在の9人制に近いものになったのです。9人制でも当初はサイドアウト(サーブ権がないと得点にならない)がありました。
国内最初の競技大会は大正8年(1919)、兵庫県女子中等学校バレーボール大会。大正14年(1925)には第1回全日本排球選手権が開かれ、翌年の大正15年、文部省の体操授業要目に採用されたことから普及発展しました。
昭和2年(1927)7月には大阪で大日本排球協会(日本バレーボール協会の前身)が創立されます。
国内最初の国際親善試合はと言いますと昭和4年(1929)、中国の復亘大学が来日して関東、関西などを転戦、国内大学チームで唯一対戦した神戸商大は1勝1敗1引き分け(日没のため)だったそうです。



<後記>
「青山バレー部の思い出…1」「青山バレー部の思い出…2」
野老山先輩のお宝を紐解きながら、大学バレーボールの歴史を覗いてみました。全日本大学バレーボール連盟50年史、2012年度春季関東大学バレーボールリーグ戦プログラム等を参照して奥本浩平が構成。
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