2021.09.04 更新
青山岐知会報第1号で記した菊花石の探石の後、道の駅「織部の里もとす」に立ち寄り、織部展示館を駆け足で観るというスケジュールでした。このテーマだけで1コースを組むべきだったと幹事として大いに反省しています。
またの機会につなげる意味でも、本巣市の史跡等を踏まえ古田織部について紹介させていただきます。
織部展示館に展示されている「織部焼き大皿」に書かれた次のような文字が目に飛び込んできます。
われ三代に仕え幸せに存じ候
お茶を
信長さまは酒となし
秀吉さまは見せ物となし
家康さまは薬となされた
われ三代に仕え幸せに存じ候
茶を捨てるか命を捨てるか
迷わず候
古田織部(1544~1615)は、生誕から没年の歴史の転換点に生き、武将として信長、秀吉、家康に仕えています。古田織部正重然は美濃国山口城主古田重安の弟で茶人であった古田重定の子として生まれています。千利休が完成した「侘び」の精神を継承しながら、自由奔放で独創的な茶の道を切り開き、利休七哲の一人とされています。中でも陶工たちを指導して作らせた茶器や花器や鮮やかな色彩と左右非対称の歪みを合わせ持つ特有のデザインは有名です。形式を重んじる茶道に新しい風を吹かせました。
岐知会報第1号で指南役をしていただいた石川隆直校友によれば、「一石庵」の由来は、社会に一石を投じたいという思いを込めた名前だそうです。そして石川校友は十数年に及ぶ精進の結果、令和元年、京都の織部流茶道家元・興聖寺にて「教授」資格を習得されています。古田織部と何か共通するソウルを感じます。
話を戻しますが、本巣市の道の駅「織部の里もとす」には、「織部展示館」「山門ギャラリー」があります。
今回は訪れませんでしたが、「文殊の森」には、古田織部が幼小のころこの山野で育った、山口城跡がこの森に残っています。山口城下町の町並み(市史跡)では、山口城主古田氏に仕えた家臣団が住んでいたとみられ、現在でもその面影をたどることが出来ます。また、古田家菩提寺「祐國寺」は、古田織部の祖にあたる古田総兵衛の菩提寺です。
(幹事:山北記)