王華東(1971年3月卒)
1967年機械工学科入学の三期生で流体研で堀先生、岡本先生、三栖先生のご指導を受けました。私は初等部から大学まで16年間、青山学院に育てて頂きました。高等部卒業後は、兄と姉達がいたアメリカの大学に進学するつもりで、内申試験を受けませんでした。その後ビザ取得に問題が起き、日本の大学に進まなければならなくなり、急遽青山学院を含め四校を受験し、他校という選択もあったのですが、やはり、青学機械工学科に進むことにしました。
卒業後、東京で父と共に日本の技術輸出及び貿易の仕事をした後に、父と兄がロスアンゼルスで始めた会社で日本製魚群探知機の輸入販売を行い、その後、自社で魚群探知機の設計、製造、販売をしました。1979年に突然隣接した工場から出火し、大きな痛手を受け会社を縮小せざるを得なく、仕事を探すことになりました。アメリカでの初めて就職活動で、英語の履歴書を十数社に送り、その中で規模最大の会社であったロッキード社の資材部に入社する事が出来、飛行機の部品及び部材の購買を5年、セールス・マーケッティング部門で6年働きました。資材部では、購買担当で三百人中唯一のアジア人で、セールス・マーケッティング部門では、私は唯一の非白人でした。言葉や文化の壁等有り苦労しましたが、ロッキード社で、多くを学び経験を積むことが出来ました。
米ソ冷戦後、1990年に国防最大手ロッキード社も縮小せざるを得ず数万人の人員整理を始め、私は難を逃れアトランタに転勤と言われましたが、太平洋岸のロスアンゼルスを離れるよりは、転職を選び米国全日空商事の機械部長として迎えられました。飛行機関係の仕事以外も担当し、日本企業の代理店として米国での半導体精密部品販売を大手半導体メーカへ行い、1994年に顧客のIR社からアジアビジネス開発担当の責任者として迎えられ、中国での合弁企業創設及びセールス体制構築、販売促進。米国半導体協会の代表の一員として中国、台湾政府とのロビー活動等に関与。2000年からIR社元CEOによるスタートアップ、アイサプライ社の起業に参画、半導体及び電子業界のサプライチェーンに関するリサーチ、コンソルタント会社を立ち上げ、アジア担当の責任者として、日本、香港、上海、台北、ソウルに拠点を創設、アジア業務を大きく成長させる事が出来ました。その後会社は、2011年に総合インフォメーション、コンソルタント企業であるIHSに買収合併され、2014年リタイヤするまでアジア担当シニアーアドバイザーとして、アジア戦略、企業の買収などに関与しました。
色々苦労し何度も転職せざるを得ませんでしたが、それは神様のお導きとお恵みだと思って感謝しています。常にレイオフの危機がある中で、いつもスキルアップに努力し色々な困難の中で成長する事が出来ました。リタイヤした今は、徒歩を中心とした運動や軽い筋トレをし健康を与えられ、教会の奉仕や男声合唱団に属して社会へのボランティヤ活動に参加、年に1?2回海外旅行を楽しみ、いつも前向きに感謝の気持ちを大事に暮らしております。技術を持った国際人として羽ばたこうとされている皆様、アメリカで暮らしたい方、外資企業で働いてみたい方、悩んでいらっしゃる方、気軽にお声かけて下さい。AGME同窓の皆様のお幸せとご発展をアメリカの地からお祈りしております。
「青学校友会ロスアンジェルス支部が毎年行なっている、青山学院を創設された宣教師の墓前礼拝(右から8番目)」
参加している日系男声合唱団(右端)LA Mens Glee Club