新型コロナウイルス感染症が再び猛威を振るっています。これから冬季を控え、医療の逼迫も懸念され、予断を許さない状況となっています。そんな中、医療現場の最前線で働かれている校友がおられることをご存知でしょうか。
今回取材させていただいた浜本健作(はまもと・けんさく)さんもその一人。2002年3月に青山学院大学法学部を卒業後、同年4月に東京医科大学に入学、2008年3月に卒業され研修医に。
日本DMAT(災害派遣医療チーム)の隊員でもある浜本さんに、ご勤務先の東京曳舟病院にてお話をうかがいました。
お父様やご兄妹も青学という一家に育ち、小学生の頃からラグビーに打ち込まれていた浜本さん。ところが、大学1年生のときに鎖骨を折ってラグビーができなくなってしまいます。悶々として厚木キャンパスに通う日々を過ごしていく中、医療への道を志す決意を固めていきます。思えば小学校の文集にすでに「医者になりたい」と記しており、医者は浜本少年の夢でもありました。ただし青学に通ったまま医学部をめざすのは無理難題とも思えました。当時、倫理学の小原先生や哲学の清水先生らを頼って相談したところ、「遅いなんてことはない」「人生七転び八起きだよ」と後押しをしてくれたのです。先生方への感謝はいまなお忘れることはありません。
幼稚園の頃から活発に運動を
ラガーマンとしての誇りを常に
墨田区の曳舟病院には今年4月に赴任。整形外科の医長を務めつつ、これまで救急医療を担っていたことから、新型コロナ対策の最前線で指揮を振るうこととなります。4月といえばパンデミックの危機がまさに現実となろうとしていた時期。ほぼ眠れない日々を過ごします。
ECMO(人工心肺装置)による治療にもあたることも
いまも激務にあたられる日々が続きますが、誰もが思う疑問として「医学部のない青山学院大学で学んだ意味はあったのか」「遠回りではなかったのか」という点。その答えは「むしろ、いま医療をするうえでの基盤になっています」と即答いただきました。
具体的にはキリスト教の教え。自分を愛するように隣人を愛するという思いやり。そういう奉仕、愛、正義こそが、患者さんのための医療ではないのかと。それをやろうと思ってやっているのでなく自然にできてしまうのです。
「なんで医者になったのか...」。医者になった当初はうまく言えませんでした。そんなとき青山学報の「AOYAMA VISIONの一環としてサーバント・リーダーを育成する」という言葉が目にとまりました。見た瞬間に「これだ!」と悟ったのです。医療者としてサーバント・リーダーになりたいと。皆、何かしらのサーバント・リーダーであり、それがぼくにとって医療だったということです。
また、アメリカでは四年制大学を出てから医者になります。一方、日本の医学部では片手間でしか一般教養(リベラル・アーツ)を学ぶ時間がありません。僕の場合は一般教養を学ぶ時間も機会も十分にあったことも恵まれていた点です。青山学院大学で学んでこそといえます。
ドクターヘリにも8年で250回ほど搭乗
この先の目標として救急医もやっていきたい、いわゆるダブルボードです。並大抵のことでできるものではありませんが、人生をかけて取り組んでいきたい。
そしていつかは「国境なき医師団」(*国際NGO:1999年ノーベル平和賞受賞)で働きたいとも考えています。子供がいるのですぐに実現できることでもありませんが、医療が十分に受けられない人々が世界には大勢います。そのような場に身を置くことこそが、医療人として、青山学院で学んだ者として、最もやりがいと喜びを感じるものと信じています。
【取材協力】ドクター青学会(青山学院校友会アイビーグループ)
・2013年に発足。浜本さんも一員です
・構成員(2019年10月現在)
正会員数(青山学院校友会会員で、医師の資格をもつ者):206名
準会員数(大学医学部医学科学生):20名